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誘われるかのように店の中へと入る三人。 其処に広がる光景は、そう、一目で誰しもが感じてしまうような雰囲気だった。 『おじさま』や『おばさま』とでも呼ばなければならないような、 貴族と称される類の人々があちらこちらでお茶を飲む。 というのは完全な妄想なのだが、そんな雰囲気を出していた。 一般人、ましてや学生がこぞって入れるようなお店ではなかった。 店の外見とはうらはらに床、壁なんかは大理石で出来ている。 この不景気の中、どうしたらこんなお店を建てる事が出来るのか疑問に思うところだ。 テーブルも洒落たもので、真っ白いテーブル、そして其れに合わせたかのような 真っ白いテーブルクロスが丁寧にしかれている。 幾つかが規則正しく並べられたテーブルの一つには、倉田 岬が座っていた。 こっちこっち、という言うように右手を上げて手招きしているのが見える。 私こと神無月 霊と隣に居る、弓塚 直樹は倉田 岬が座るテーブルへと行く事にする。 テーブルにつくと、倉田 岬は既にメニューを開いていた。 其処には麦茶や烏龍茶は勿論、紅茶、珈琲等も多種多彩に記されていた。 紅茶なんて殆ど飲んだ事が無い。飲んだとすればスーパー等で売っている、パックのモノだけだ。 珈琲は私は何故か苦手なので飲んだ事が無い。気づけば飲めなかった。 お茶は毎日飲み物が欲しい時にだけ飲んでいる程度。 折角なので、此処は詳しそうな倉田 岬にお勧めの紅茶を選んでもらう事にした。 「なぁ、倉田、紅茶で何かお勧めなモノは無いか?」 そういうと倉田は待ってましたと言わんばかりに手を胸にドンッ、と当てて任せなさいと言い、 何やらはりきってメニューと睨めっこを開始するのだった。 暫くメニューと睨めっこをしていた倉田 岬は此れなんかいいんじゃない?と一つの紅茶を指差した。 ローズティー そうかかれている紅茶、、、倉田の話しによると此れはハーブティーなのだそうだ。 紅茶とハーブティーは同一のモノなのか否かは分からないが、面倒そうなので聞かない事にした。 「倉田、このローズティー、だっけ?何がどうお勧めなのか教えてくれるか?」 別に興味があるわけではないのだが、他人にお勧めされて、尚且つ自分が飲むモノなのだから、 其れがどういう訳でお勧めなのかだけは知っておきたいと思ったのだ。 「んーとね、ローズティーっていうのはハーブティーなんだけど、 この紅茶に使われているハーブ、ローズだね。 ハーブの中ではダントツな人気を誇る一つがローズ。 ローズは『香りの女王』だとか、『ラビアンローズ』つまり、バラ色の人生なんて呼ばれてるの。 ハーブティーの中でも特に香りが良くて、其の香りだけでも女性陣の間では虜にされてしまうのよ。 そしてこのローズが人気の秘密は、ホルモンバランスを整えて、 美肌効果があるの!やっぱり女の子は美肌効果に弱いもんね〜。 他にも解毒作用だとか、肝臓、胃腸、肺なんかも強くしてくれる効果があるみたいだね。 あ、でも神無月さんくらいに綺麗な肌だったら、、必要ないかも。」 お勧めをしといて最後には必要ないときたものだ。 取り敢えず理由は分かった。要するに彼女が薦めた理由は美肌効果にあるらしい。 女の子とは確かに美肌効果に弱い気がする。 身だしなみを男以上に気にしたり、化粧品を使ったり、と 今の自分をもっと綺麗に魅せたいと思ってしまうのだろう。 其れを利用して最近流行っているのがダイエット食品等だろう。 ダイエットとは女性の敵でもある厄介なモノだ。 ダイエットを始めたら始めたで満足な食事が取れずで栄養出超になる事もある。 成功した!等といっても其の後過度に食べ過ぎると今度はリバウンド効果が発生し、 以前にもまして太ってしまうという恐ろしいモノもある。 結果的にリバウンドで増えてしまった体重が一00Kgを超えるという例もあるらしい。 まぁ、元々私はお菓子等の甘いモノは余り食べないし、 間食というのは好まないのでどうにも太らないわけなのだが、 恐らく体質も影響してると思うが・・・。 「じゃあ、取り敢えず其のローズティーでいいよ、私は。」 そういって倉田 岬がチョイスしてくれたローズティーを私は頼む事にする。 一方、隣では何やら難しい顔をしてメニューと戦っている奴がいる。 勿論言うまでもなく弓塚の事だ。 暫くメニューを眺めた後、弓塚はとんでもない事を言い出した。 「なぁ、倉田さん、紅茶でさ、悩みをふっとばして健康によくて、えーっと、 疲れが抜けるような効果のある紅茶ってある?」 後で知るのだが、弓塚も私と同じで紅茶に関しては全くのド素人なのだ。 其処で弓塚は此処ぞと言わんばかりにでたらめに取り敢えず効果を挙げ、 そういった紅茶が存在するのかを知りたかっただけらしい。 其の問いに倉田は眉を潜ませながら答える。 「んんー、欲張りすぎじゃない・・・?殆どのハーブティーには、 リラックス効果が含まれてるから、そうだなぁ、 このペパーミントティーとかどうかな? ペパーミントティーは紅茶初心者の人でも親しみやすい味になってるし、 付け加えてこのすっきりとした香りによって、リラックス効果は勿論、 消化を助けてくれたり、後、そうそう、風邪とかで神経が高ぶって眠れない時の 通称ナイトティーと呼ばれるモノで、寝る前に飲むのも効果的なの。 ・・・質問には全部繋がるのかな。 えーっと、消化を助けてくれたりとかで健康には良いし、 元々のリラックス効果と、ペパーミントの香りで悩みが・・・。」 倉田も素直な奴だ、ほれみろ、倉田も難しい顔をし始めたじゃないか。 まぁどんなモノでも楽しく飲めたら良いと思うが、というと私のせいなのか・・・? 真剣に悩むのも莫迦らしいし、こんな無理難題を押しつけた弓塚にも責任がある。 しかし其れを言ってのけるとは、紅茶には色々と効果があるものだ。 健康食材として世の中には色々と解明され、販売と同時に効果を付属している食材もある。 例えば良く魚が売られている所では、DHAなんて単語を目にする。 DHA、即ちドコサヘキサエン酸と呼ばれ、摂取すると頭が良くなると言われているものだ。 正確には摂取する事で簡単に頭が良くなる、という都合の良いものではなく、 DHAには、ストレスを抑える働きがあったり、痴呆や記憶改善、精神安定性とか効き目がある。 此れらを踏まえた上で『頭が良くなる』と言われているのだ。 実際、DHAを取れば頭が良くなる、と口走ってもDHAの何がそうさせるのかを理解出来て無い人が大半だ。 ただ単にそういう効果があるからといって摂取するのではなく、 どうしてそういう効果があるのかを知ってから摂取するのとでは大きな違いが出てくると思う。 まぁ、、摂取すれば一緒なのだが。 DHAに関して、此れは科学的にも証明されている事なのだ。 実験に良く使われる実験用マウスの迷路記憶学習脳実験でDHAを摂取させたマウスと、 其れとは別にDHAを摂取させていないマウスとでの実験をしたところ、 DHAを摂取したマウスの方が遥かに記憶学習脳が高いというデータを出している。 さて、、こんなくだらない事を考えないで、先ほどの紅茶を飲むとしよう。 ・・・と、まだ紅茶は出てきてない、というのもまだ倉田 岬が飲むモノが決まってないのだ。 倉田 岬は暫く悩んだ挙句、ブルーマロウティーというモノをチョイスした。 紅茶を選んだ倉田 岬の顔は何処か楽しげだった。 紅茶一つで此処まで興味を示すものなのだろうか・・・。 暫くすると三種類の紅茶が出てきた。一つは弓塚が選んだ、といっても倉田 岬が選んだものだが、 ペパーミントティー、そして私のローズティー、倉田 岬が選んだブルーマロウティーの三つ。 色はドレも同じようなもので言われないと分からない。 寧ろ名前が違ったところでローズティーの味が分かるわけでもないので、これがローズ、と言われて飲んでも 恐らくは気づかないだろう。 ローズティーだと言われ差し出された其れを私は香りを楽しむ事にした。 香りの女王、と呼ばれるだけあって其の香りはとても特殊なものがあった。 濃厚なまでに仕上げられた其れは頭の中をするすると駆け巡り、ありとあらゆる細胞を繋ぎ変えてしまうかのように。 一瞬にして私の思考回路はローズティーへと釘付けになるのだった。 今までに感じた事の無いこの香りにあっさりとやられたのだ。 確かに紅茶は何度か飲んだ事はある、其れは一般的なモノで、何の種類かも分からないが、 パック状のモノで、コップにいれ、お湯を注いでパックの中の紅茶をお湯にしみこませるという簡単なもの。 その紅茶には何の香りもなく、味もただのお茶という感じだった。 此れは飲むのが楽しみだ、何でも此処は紅茶を提供する中でとても力が入ったお店だと言う。 紅茶に使う葉や、お茶に使う葉も全国、全世界から集めた一級品のモノしか使わないのだという。 だからこそ、この店は其れだけの経営をしているのだ。 香りを堪能したところで私は一口、口の中へと紅茶を含んでみる。 口の中でパチンとはじけるかと思った其れは口の中をゆったりと駆け巡る。 このまま飲んでしまうのが勿体無い位美味しい。 口の中に広がる先程のローズティーの香り、そしてしっとりとした味。 葉独特の苦さは何処にもなく、すんなりと口内を侵食し、なじんでいってしまうのが分かる。 私の体という体の中に今ローズティーが流し込まれて行く。 其れはとても優しいモノで、すんなりと其れを受けれてしまっていた。 一口飲んだだけで私は満足だった。 今まで考えていた事や悩んでいた事、其れら全てがどうでも良くなってしまう。 勿論隣に座る弓塚 直樹の事もどうでもいいとすら思えてしまうのだ。 此れが所謂リラックス効果という奴なのだろうか、しかしそんなに早く効き目が現れるわけでもあるまい。 だが現状に私はリラックス効果と呼ばれるモノを体験しているように思えてしまう。 此れが紅茶の力なのだろう。なるほど、女の子がハーブティーの虜になってしまう訳も分かる気がする。 ハーブティーに浸っていると隣の弓塚 直樹は既にペパーミントティーを飲み干していた。 此れだけの紅茶を飲みながら何とも思わないのだろうか・・・。 飲み終わった弓塚の顔は何処となく何かに勝ち誇ったかのようにある。 「おまえ、折角なんだからちゃんと味わって飲めよ。」 紅茶に此れだけ浸ってしまった自分が何だか莫迦らしくなってしまった。 すると弓塚は目線を私へ変えて、 「ん?ちゃんと味わって飲んだよ。とても美味しいね、此れがホンモノの紅茶なんだな。って思った。 香りも一般的に知ってるペパーミントと違ってとっても良い香りなんだ。 ペパーミントって言われると第一にハッカを思い浮かべるんだけどさ、其のハッカとは違った香りなんだよ。 そんな安いモノじゃなくて、何ていうかなあ、ホンモノのペパーミントってこういうものなんだ!みたいな。」 香りをどう表現していいのか分からなくなった弓塚は無理遣りに納めてははっとした笑いを含めて私にそういった。 まぁ、こいつはこいつなりに紅茶をちゃんと堪能して飲んでいたらしい。 だとすれば私が飲むペースが遅いだけなのだろうか、と倉田 岬の方へと目を向けることにする。 すると倉田 岬はじっと紅茶を眺めてまだ一口も飲んでいないようだった。 くすくす、と笑いながら私達に目線を変えてこういった。 「実はね、私が選んだこのブルーマロウティーってね、暫くすると色が変わるんだよ。」 倉田はとんでもない事を言い出した。紅茶の色が変わるというのだ。 果たしてそんな事があるというのだろうか、暫く私と弓塚は倉田の紅茶に目をやった。 すると段々と青紫色だった紅茶は赤色へとじょじょに変化しはじめたのだ。 確かに最初見た時とは色が違っている。仮にもこの状態で出てきたのなら、 一つだけ色が可笑しい、と誰しもが判断出来る事だろう。 すると倉田はもう一言付け加えた。 「驚くのはまだ早いよ?この紅茶はね、もう一回色が変わるんだよ。」 そういって暫くすると今度は赤茶色へと色を変えた。 先ほどの淡い赤色と違って、そう、始めに見た紅茶の色が今の赤い紅茶へ少しずつ混ざって行くような感じ。 放っておけばまた最初の色へと戻ってしまうのではないか、という感じにも取れてしまう。 「此れはね、多段に色が変わるから『夜明けのティザーヌ』とも呼ばれてる不思議な紅茶なの。 何故夜明けなのかは分かるよね?暗い色から段々と明るい色へと変化するから。 ティザーヌ、っていうのはね、フランス語でハーブティーって意味なの。 だから此れは夜明け、色が段々と夜明けのように色が変わって行くティザーヌ、つまりハーブティーっていう事。」 ハーブティーマニアという称号を与えたい位に詳しい倉田 岬。 確かに夜明けのように薄っすらと色を変えて行く其れは他では滅多におめにかかれない事だろう。 美味しい紅茶を飲んだ上に夜明けのティザーヌという美しい紅茶を見る事も出来た。 何やら今日はとても楽しい日になったようだ。 辺りにはまだ紅茶の独特な香りが支配する喫茶店。 客は私達の三人だけらしい。 暫く紅茶を堪能した私達は其の喫茶店から出る事にした。 帰りにカウンターを見ると、持ち帰り用もあるようなので、 私は先ほど飲んだローズと色が変わる夜明けのティザーヌこと、ブルーマロウを買う事にした。 値段は、とてもじゃないが、一般的な紅茶を買う私にとっては恐ろしい値段になっていたが・・・。 喫茶店を出ると丁度良い色が私達を染めてくれる事になった。 まだ頭の中にはぼんやりとブルーマロウティーの映像が繰り返していた。 口の中はやんわりとしたローズの香りが立ちこめている。 まるでお酒で酔っ払ったかのような印象を受けてしまうのは仕方ないだろう。 時間も良いので私達は学校の正門へと戻り、軽い挨拶と御礼をして皆とわかれるのだった。 ◇ 倉田 岬と弓塚 直樹と行った喫茶店より十日程経った。 私は部屋にいる。 ベッドの横には二つの缶があった。 其れは喫茶店で購入したローズと、もう一つはブルーマロウだ。 あれからまだ一度も開けていない。そんなに急いで飲むモノでもないと思うし、 何よりこういうものは何か特別な事があってから飲みたいと思ったからだ。 あれから十日が過ぎた。でも其処には何時もと変わらない平凡な日々があったのだ。 何も変わらない。 そう、何も変わらないのだ。其れが悪いとも良いとも言えないのだが、 現状では特別変わった事は無い。 学校では相変わらず弓塚がちょっかいばかりかけてくる。 付け加えてあの喫茶店以来、倉田も話しに参加するようになっていた。 だが特別女の子は毛嫌いする傾向にはなかったようだ。 不思議と彼女と会話する時は苛々が殆どといっていい程たまらないのだ。 今日は平日、だというのに私は学校にも行かずベッドの上で仰向けになり、 ただただ部屋の天井を眺めるだけなのだった。 天井は低いだろう。 長く見つめ続けると其れだけで胸を締め付けられる感じ。 其れが悪いとも言わない。余計なモノが心の中へと侵入することもないのだから。 そう、天井によって締め付けられた私の心は全ての理を受け入れる事を拒絶しているのだ。 いや、正確には天井という理由をつけて、本当は自分自身が何も受け付けたくないのだと思う。 今日は平日、だというのに弓塚も居なければ倉田も居ない。 私だけ休日のような扱いを受けていた。 勿論学校ではまた代わり映えのしない何時もと同じような生活が送られているのだろう。 学校にも電話をしないで、というより私の家には電話がないので、 休むにしても連絡すら入れられないのだ。勿論休んだからといって学校から連絡が入るわけでもない。 休んだ理由。 其れは恐らく存在しないだろう。 ただ気づけば私は目を覚まし、まず始めに見上げる事となる天井を眺めていたに過ぎない。 寝坊をしたというわけでもない。目を覚ました時、時計の針は丁度七時をさしていた。 此処から支度を済ませて学校へと向かえば間に合うのだから。 だが其れをせず、私はただずっと、天井を見上げているだけだった。 一体私は誰なのか。 一体私は何を求めて生きているのだろうか。 そうだ、全てはこの二つの理由だ。 だから学校を休んだという理由を挙げるのならこの二つだろう。 だが学校を休む上での理由には到底なり得ない。 先生に言えばきっと莫迦なこと考えて無いで学校に着なさいと言われるに違いないのだから。 だが私にとって此れは重要な事だ。 確かに名前はある、神無月 霊という名前がある。 だが確信が持てない。肉親にそういわれるわけでもなければ自覚がないのだから。 学校で、先生に毎日名前を呼ばれ、弓塚や倉田からそう言われてただ其れに従っているだけに過ぎないのだ。 倉田のユメは美容師になる事だと前に弓塚が話していた。 其の話しは喫茶店の時にも少し出ていたが何故美容師になりたいのかは興味がなかったので馬耳東風。 ただ美容師になるユメがあるという所だけ覚えている。 そして弓塚にはユメがない、勿論この私にもユメがない。 二人は一見同じように見えるのだが、此処には大きな問題点がある。 其れは、彼はまだユメを見つけ出せていないだけ。 此れから先学校を通してユメを見つけることもあるかもしれない。 今起きている世の中の事に興味が無いわけではないのだから。 だが私は違う。世の中において起きていることになんら興味が沸かないのだ。 誰かが有名人になってテレビに出てるだの、大統領がどうとか。 日本の政治がどうだとか、そんな事は私にとって関係無い話しなのだ。 全く無いといえば全く無いわけではないが、其れ等が私に及ぼす影響なんてほんと僅かなものだろう。 例えば身近なモノでは『消費税』だとか。 消費税は人間にとって一生つきまとうものだ。 何か一つ買うにしても其処には消費税が含まれているのだ。 税というものは、この消費税も含めてだが、色んな所から出ている。 勿論其れら全ては私達消費者が少しずつ知らないところで払っている。 国はこの税をどう使うのかというと、例えば災害等での援助として使ったり、 他にも賄賂だとか、国が何か行動を起こそうと思えば其れだけ御金が移動していくのだ。 其れが消費者側にとって良い使われ方をすれば良いのだが、今はそういうわけでもない。 必要の無い所に税がまわり、自分達の生活状況を良くしているだけにすぎない。 所詮人間とは御金という道化師に操られた人形でしかない。 我ながら良い例えだと思う。 御金というモノに惑わされて日々を過ごしてるに過ぎないのだ。 生きて行く上で絶対に必要だとされるものは御金だ。 此れがないと人は学校は愚か、家にだって住めないのだから。 駅等で良くみかける、ホームレスと言われる其れが良い手本だろう。 彼等はリストラや借金などで寝床を失った、所謂世間に見放された人間だ。 自ら働こうともせずに、そこらにあるダンボール等で生活をし、 人が吸い終わり、投げ棄てた煙草を拾っては火をつけて煙草を吸う等、 人間としての機能を殆ど失ってしまった人なのだ。 着ているのが服かどうかすら判断がしにくいモノを着用し、其の容姿は酷く汚れている。 そんな奴等に私は同情する気もなければ助けてやる義理だって存在しない。 御金を必要としないのならそのまま一生を終えても良いだろう。 だが、そんな事で一生を終えて何の楽しみがあるというのだろうか。 何故生きていくのだろうか。其処までして。 私には分からないが、言ってしまえば生きる目的を持たない私も、 彼等とは同類なのかもしれない。 生きる目標も定まらず、自らが意味の無いものだと言い放った其れへと登校する。 自分自身がこの世に存在するのかどうかすら分からない。 酷く溢れかえったひとごみの中へと入りこんでしまえば、神無月 霊という人間の存在は 一瞬にして亡くなってしまうだろう。 そして其れは、周りの人間に巻きこまれ、自分で自分が認識出来なくなってしまうのだ。 此処には人が沢山いる、だけど私は何処にいるのか分からない。 自分の瞳の中に映る其れ等は事実私が見ている光景なのは確かだ。 だが人の多さによって私という人物がとても小さくなっていってしまう。 簡単に言うのなら、例えば私という人物がもう一人居たとする。 そして其のドッペルゲンガーでもある神無月 霊が其のひとごみの中へと入りこんで行く。 そう、たった此れだけの事で私はもう一人の私の存在を消してしまえるのだ。 其れに紛れ込んだ私はもう私ではなく、ただひとごみに参加したただの人でしかなり得なくなってしまう。 自分が何故今ここに居て、何を求めているかなんて到底分からない。 何故生きているのか。何の為に生かされているのか。 私一人では何も分からない。何も答えが出て来ない。 そう、其れはただ動く事を許された人形のように。 ◇ 今日は喫茶店へと行ってから十日目になる。 何時ものように支度をして学校へと向かう。 学校の教室はやっぱり何も変わらない風景が映し出されていた。 変わった事といえば制服が冬用から夏用へと変わっただけだろうか。 辺り一面を黒で覆っていたそれは、夏服へと変わった事によって、 真っ白い世界を作りだしていた。 そんな中でも私の前の席にいる、倉田 岬も夏服を着用し、 何とも清々しい姿をしていたのだ。 隣を見るとただの机と椅子が綺麗に並べられてあった。 霊は着ていない。時刻はもう八時半を過ぎていた。 霊に限って遅刻してくるのだろうか?今まで欠席もなければ、 遅刻もなかった彼女なだけに心配になってくる。 例えば来る途中、前にみた女子生徒のような目にあっていたりするのか。 それとも風邪をこじらせて学校へこれないだけなのだろうか。 現状私は学校にいて、連絡先も知らないので連絡の取りようがなく、真実は闇の中。 でも私に出来る事と言えば、何時も通りに学校生活をこなしていく事くらいなものだ。 事故を目撃した時、其のことに対してあれこれ考えたところでどうにもならないように、 私が今、となりにいない霊の事をあれこれ考えたところでどうにもならないのだから。 ◇ あれから三日が経った。霊は依然として学校へ来る気配は見せていない。 風邪が長引いているのだろうか。考えても分かるものじゃない。 こんな時、電話の一本でも繋がれば分かるのだけど、あいにく電話番号を知らないし、 配布された連絡用紙には彼女の名前の欄だけ番号が書いてなかったのだ。 何時ものように学校へ登校し、席に座って窓辺をぼーっと眺めていると誰かが隣に近寄ってくる気配を感じた。 そして其れは無造作にも私に声をかけてくるのだ。 「なあ、おまえ、神無月と仲いいだろ?なんでアイツがこないのか知らないか?」 ふいに話しかけられた其れは男の声だった。 視線を其の男の方へとやると、其れは霊の席に座っていた。 髪はばっさりと切り落とされ、イワトビペンギンを連想させる髪型をしている。 一見好青年を思わせる其れは、金髪に染められてあり、評価を悪くしてしまっていた。 この顔立ちには見覚えがあった。 そう、自己紹介の時、霊に散々莫迦にされた男、橘 健次郎だった。 質問された内容に関してはこっちも聞きたいモノだった。 「霊の事か。実は私も知らないんだよね。家を知ってるわけでもなければ、 連絡先を知ってるわけでもないから。だからただ彼女が学校へ来るまで待ってるだけだよ。 こうやって何時もと同じ時間をね。」 其れだけ言って私はまた視線を窓辺の方へと戻す事にした。 質問には答えたのだから、話しは此れで終わるはずだったのだから。 だが話しは終わらなかった。 「ならさ、えーっと、確か最初に入学手続きとかで住所とか書いたの提出してるはずだ。 だから先生に住所教えて貰えば家くらい分かるんじゃないか?」 其の言葉に私は視線をまた男の方へと戻す。 なるほど、そういえばそうだ。入学の時、名前や連絡先、住所といった類は、 ちゃんと書類に書いて学校側に提出しているのだ。 恐らく連絡もなく三日も休んでるので先生方の中でも話題になっているはず。 どうして其れに気づかなかったのだろうか。そう考えてみればこの男はキレる人物のようだ。 若しくは私が抜けているだけかのどちらかだろう。 少し考えた挙句私は彼に言う。 「なら、早速今日の放課後、先生に聞いてみようか。」 そう言うと男は納得したのか、表情を変えず頷くのだった。 ◇ 放課後、空は綺麗なオレンジ色に染められていた。 今日は六間目を終えてから、少し居残りで授業をさせられていたのだ。 というのも私ではなく、橘 健次郎の方だが・・・。 彼はあの容姿から分かるように、勉強はからっきしダメなのだ。 勿論授業を聞いた所で其の殆どが馬耳東風。聞いては忘れ、聞いては忘れの繰り返しだ。 学習能力が無いのか、覚える気が毛頭無いのかのどちらかだとは思うのだが、 恐らくは後者なのだろう。授業態度からも自分から進んで取り組もうという意志は感じられない。 というのも、授業中は殆どノートも教科書も開かず寝てることが多いのだ。 彼の居残りが終わり、鞄を持って私が待つ正門前へと姿を現すのだった。 「すまんすまん、ちょっと居残りで時間くっちまったよ。 其れじゃ早速先生にききにいこうか。」 そういって私達は一階の公務員室へと足を運ぶのだった。 ◇ ガラガラ、と音を立てて開く其れは公務員室の扉だった。 失礼しますと軽く御辞儀をして私と橘 健次郎は公務員室へと入る事にした。 公務員室はとても涼しかった。教室には配備されていないクーラーが取りつけてあった。 学校の教室とは違い、会社のような造りをしている。 綺麗に並べられた灰色の机が何台も繋がっている。 其の上には教科書は勿論、ファイルや辞書のように分厚いモノも並べられている。 そして机の目の前にはノート型パソコンが並べられていた。 担任の先生はスグに見つかった。 早速先生に事のあらましを話す事にする。 「欠席や遅刻もなかった神無月さんが暫く学校にきて居ないので、 先生に協力してもらおうと思ってきました。 というのも連絡先とか分からないので、良かったら連絡先、若しくは、 家の住所とか教えて頂けないでしょうか?」 私は取り敢えず単刀直入に聞いてみる事にした。 すると先生は連絡先が分からなくて連絡が取れなくて困っていたらしい。 どうやら私の予感は的中していたようだ。 近々先生も神無月 霊の自宅へと伺おうとしていた所らしい。 だが先生が行くより、こうして心配してくれている生徒が足を運ぶ方が良いと言い、 簡単に住所を教えてくれ、丁寧に地図まで広げて教えてくれたのだ。 最後に先生は「忘れないように」という事で住所を適当な紙に記して私に手渡してくれた。 有難う御座いましたと御礼を言って私達は公務員室を後にした。 此処でようやく無言だった彼が口を開いた。 「よし、後は神無月の家を探すだけだな!」 何やら張り切りだしているこの男。 何をそんなに張り切るのか私には到底理解出来ない領域なのだろう。 聞くのも面倒でどうでもいい事だと思ったので其処は相づちをうつだけにした。 此処で理由を聞くよりも霊の家を確認して今どうしてるのかを知る事が、 先決だと判断した事だからだ。 手渡された紙を再度確認する。 地図でも見たのだが、私の家からそう遠くはない位置にあった。 正門を抜けて、私達は霊の家の方角へと歩いていった。 時刻はゆうに七時を過ぎていた。 家に行く途中、自分の家にさしかかったので、橘に少し待っていてと伝え、 私は一度家に帰り、鞄を置いて、母に少し遅くなるからと伝えて家を出る。 橘と再び合流した私は早速霊の家へと再度向かうことにした。 ◇ 時間にしておよそ二十余分。 霊の家は簡単に見つける事ができた。 住所を確認しながら、というのと、二人とも徒歩だという事での時間だが。 行きなれてしまえば十分程度でつくことが出来るだろう。 外見は霊と違い、とても陰湿な雰囲気を持っていた。 壁は一色、黒とも白とも取れない外壁。其れを除けば普通の一軒家なのだ。 玄関に飾られて有る表札に目をやると、確かに此処は神無月 霊の家らしい。 インターホンを探していると我慢出来なくなったのか、後ろから橘が、 「おい!神無月!居るんだろ?出て来いよ!」 声を高らかに放った其れは近所にまで響き渡る。 其れに言葉がとても乱暴だった。まるで苛めっ子を呼び出すかのような口調だ。 するとふいにガチャ、という音と共にドアが開いた。 其の先には普段と変わらない神無月 霊の姿があった。 部屋の中にいたというのに彼女はあの赤いロングコートを羽織っている。 外だけでなく、家の中でも着用しているのだと霊は言う。 そして、何でもない時には家の中でも着用しないのだという事を付け加えて。 「後一週間は休むから。」 最後に其れだけ言って霊はドアを閉めてカギをかけてしまった。 暫く私と橘はドアの前で立ち尽くしていた。 それほど長い時間ではない。言うならば、名前を呼ばれて気づかなかった時、 再度名前を呼ばれて気づく程度だ。 「後一週間休めば学校に来るって事だろ。帰ろうぜ、弓塚。」 ふいに自分の名前を呼ばれて相づちを打つ。 そして二人はわかれて其々の家へと帰って行くのだった。 ◇ 其れから私は橘と会話をする機会が増えていた。 其の会話の中には勿論倉田 岬も参加している。 時々三人で遊びにいったりもする。そう、あの喫茶店にも行ったのだ。 紅茶は苦いからといって橘は珈琲を頼んで「にげぇ!」と行ってオーバーリアクションを取っていたのは とても記憶に新しい。 霊が来るはずの日から既に二週間が経過している。 時々私と橘に加え、倉田も家へと言ったのだが、今度は全く返事がなかった。 そんなある日、私は橘という男に気に入られたらしく、二人で遊ぼうかという誘いを受けることになる。 「おい、弓塚、今日ゲーセンにでもいかねぇか?」 誘いの口実はこうだ。 元々ゲームセンターと呼ばれるところには興味がなかった。 コイツは格闘ゲームを好んでやっているようだ。 其の腕はとても凄いらしく、挑戦者を片っ端からKOしていくのだそうだ。 其れを語る橘がとても面白くにも見え、そんな光景を一度見ておくのも悪く無いと思ったので、 私は誘いにオーケーを出して行く事にする。 この時の待ち合わせ場所は正門とは違い、近くのゲームセンターという事になっていた。 ◇ ゲームセンターに着くと其れは既にゲームセンター内の格闘ゲームの台に座っていた。 「ブレイクハート」という何とも言い難いネーミングセンスな格闘ゲームだ。 ブレイクは壊す、ハートは心臓、という連想をすると格闘ゲームでは納得がいくのだ。 相手の心臓を壊すことでKOし、勝利を収めるというモノだ。 この時橘に声をかけると「おう!」とだけ言って視線をゲームから変えず、対戦相手と戦っていた。 其のゲーム画面は良く分からないものだったが、何やら反対側の席では舌うちをして、 ゲームの台から離れて行くのが見えた。恐らく橘が対戦相手を負かしたのだろう。 ゲーム画面にはYou WINという文字が出ていたので間違いないだろう。 其れを一時間ほど傍観した後、橘は懐から四角い箱のようなものを取り出した。 そして其れに添えられたモノはライターだった。 四角い箱のようなもの、其れは煙草だったのだ。 橘は手馴れた手付きでライターで煙草に火を付けると、当たり前のようにぷかぷかとふかすのだった。 一瞬にして橘の周りは霧にでも覆われたかのように薄い煙が立ちこめていた。 霧と違うところは、其の煙にはにおいがあるという事。 煙草独特のにおいで、誰しもが此れに劣等感を覚える事だろう。 そんな私も最初はこの匂いには慣れず、自分の方へと伸びてくる煙を手で払っていた。 そんな様子を見ていたのか、橘は笑いながら私にこう言った。 「なんだ、弓塚、おまえ煙草ダメなのか?中学生なんだから煙草位吸えねーと女にモテねぇぞ?」 そういって指に加えた煙草を口に挟むと勢い良く私に向かって煙を吐き出した。 かなり険悪なモノになったが、暫くすると其れにもなれてしまい、どうでもよくなってしまった。 「あー、面倒だ、こうなったらわざと負けてやろう。」 そういうと橘はただ煙草を指にはさんだり、口にはさんだりを繰り返すだけになり、 ゲームのレバーやボタンには一切手を触れなくなってしまった。 画面には先ほどとは違い、You LOSTという文字が出ていた。 そうすると橘は台から腰を上げて、外へと歩いていった。 私はただ其れについていくだけだった。 ◇ 外に出ると空気は一転する。 あれほどまでに締め上げられた空間から一気に自由を手に入れたような感じ。 こんなにも空気が美味しいものだとは思ってもみなかったのだ。 すると、其処へ何やら数人の男が話し声を漏らしながら近寄ってくると、橘は 「こっちこっち!」 そういって声のする方へと手を振っていた。 其れに気づいたのか、男達は話しを止め、真っ直ぐこちらへと走ってきたのだ。 間近で見た其れ等はドレも此れも橘と同じような頭をしていたのだ。 髪型は其れぞれに違っていたが、皆金髪だったのだ。 片手には煙草を持っていて、橘と同じようにしてふかしていた。 「こいつが弓塚っていうんだ。ちょっと変わった奴だけどなかなか面白いぜ。」 そういって勝手に見ず知らずの男達に紹介してくれる橘。 周りの空気は一転し、ゲームセンターの中に居た時と同じような空気が立ち込める。 というのも恐らくはこいつ等がふかしている煙草のせいなのだろう。 手馴れた手付きでライターで煙草に火をつけると満足そうな笑みを浮かべて煙草を吸っていた。 「やっぱひと仕事終えた後は煙草だよなあ。」 「そういえばおまえまだバイトやってんだっけ?どうよ、可愛い子とか居るの?」 「其れがどいつもこいつも不細工ばっかりでさー、あの時のような可愛い子には巡りあえないねえ。」 などという雑談が耳に入ってくる。 話してる間も勿論煙草をふかしているし、自分等もまだ中学生だという話し。 アルバイトの方は履歴書の年齢を詐称してしているのだという。 ふと一人の男が私に話しかけてくる。 「おまえは煙草すわねぇのか?」 其の問いに私は返答する。 「煙草ってどんなモノか経験した事が無いから吸うも吸わないも良く分からない。 もとより法律で決められてるじゃないか、二十歳からじゃないとダメだろ?」 その答えに彼等は笑っていた。 別に可笑しい事は何一つとして言った覚えは無いのだ。 「おまえさ、其れは法律での問題だろ? 考えてもみろよ、今数え切れないくらいある法律の中で一体幾つ守られてんだ? 其れにな、煙草は二十歳からだっていうけど、二十歳から吸おうが今から吸おうが 結局体に害があるのは同じじゃん。二十歳からとかいう位ならいっそ煙草禁止、ってやったほうが 法律らしくていいと思わないか?そもそもだ、そんな法律が決められているってのに、 未成年でも簡単に買える自動販売機なんかにジュースと一緒に並べてる国がどうかしてる。 あはは、こう考えてみればそんな法律がどうとかってバカらしくなるだろう?」 男の言ってる事はむちゃくちゃだった。 だが考えて見ればそうかもしれない。笑われたことにも納得がいくだろう。 確かに煙草は『百害あって一利なし』と呼ばれる類なのだ。 だから結局のところ、今から吸おうと二十歳から吸おうと、 ただ其れは早いか遅いかだけの違いなのだ。 もっと深く考えるのならば、二十歳という基準は、体が成長しきっているという事も示す。 ゆえに其れ依然の年齢だと成長を妨げる原因ともなってしまう為に禁止されているのだと思う。 でも考えてみれば、確かに国がどうかしてるというのもあるのだ。 煙草の値段の殆どは税金でなり立っている。勿論其れはビール等もそうなのだ。 実際税を取り除けば一00代で買えるのではないだろうか。 私等が自動販売機に御金を入れて購入するジュースと同じように、 横には必ずといっていい程煙草の自動販売機が設置されているのが殆どだ。 そんな中でも未成年者が御金さえ入れれば煙草も買えてしまう。 今は未成年購入防止の為に、深夜十一時から明け方五時までは購入できない決まりになっている。 だがそんなのは正直無駄だと思う。確かに購入者の数は減るだろうが、 其れは極僅かでしかないのだ。 其れさえ知っていれば煙草を吸う人は其れ依然の時間帯に煙草を購入するだろうし。 未成年者の喫煙が多いのはこういった簡単に購入出来てしまうシステムを設けている事にも 確かに問題はある、あるのだが、其れと此れとは別ものだ、法律で決められているのだから、 やはり守るべきだとは思う。 簡単に決済できてしまうこのシステムはカードなんかにも同じことが言えてしまう。 過去に小学生が親のクレジットカードを使って好き放題に買い物をしていたりとか、 カードで金銭感覚が失われ、気が付けば多額の請求を迫られている、というケースもある。 何でもかんでも便利にしてしまえば良いというわけではないのだ、という事を改めて認識させられてしまう。 「そんな難しい顔しないでさ、ほら、一口だけでいいし、吸ってみろよ。」 男はそういって一本の煙草とライターを私の方へと向けてきた。 そう、こんな言葉を付け加えて。 「法律だか何だかっていってもよ、見つからなければ関係ないんだよ。 ようはバレなきゃいいんだって、別に煙草位見つかったところで、 住所かかされるだけだっての。」 確かに言ってしまえばそうだ。バレなければいいのだ。 法律が存在するとは言え、此れが犯されているかどうかなんて、 見つからなければ問いただす事だって出来ない。 其れは殺人にしてもそうだ、罪を問われるのは其の犯行が明らかになり、 法律に反しているかどうかの判断が下されてから罪を問われるのだ。 勿論此れは社会的に、という事であって、どうあっても、 人を殺した時点で社会とは関係なく、罪は自動的にかぶせられてしまう。 其れが仮にも故意的なものでないとしても、だ。 一口だけでいいと言うし、大勢が見ている。 此処で断っても無理遣り吸わされるに違いないのだろう。 観念して私は煙草とライターを手にとって火をつけてもらうことにした。 「いいか、火をつけてる間軽くでいいから息を吸い込むようにして煙草に火をつけるんだ。 そうすると火がつくようになってるから、後は其れの繰り返しだ。 深呼吸するように煙草を加えたまま息を吸い込めば煙草の煙がそのまま、 肺にはいっていくから、後は其れを吐き出すだけでいい。 煙草は其れの繰り返しだぜ、弓塚。」 火をつけてもらってる間に隣で橘が煙草の吸い方を教えてくれていた。 言われた通りに火をつけてもらい、深呼吸の要領で煙草の煙を肺へと送る作業をしてみる事にする。 途端、私は強くえづいてしまった。 肺へと送ろうとした其の瞬間、肺がぎゅっと締め付けられる感覚を覚え、 臓器が拒絶反応を起こしたかのようにしてそれは吐き出されたのだ。 吐き出してからは喉がとても痛い。 そんな光景を見ていた男達はまた先ほどのような笑い声をあげるのだった。 「はっはっは!皆最初はそうなるもんなんだよ。 此れが慣れてくれば煙草が美味しいって感じられるぜ。」 煙草が美味しい?とっさの事で味を確認する事は出来なかったのだが、 何とも厭なもやもやーっとしたものが口内から喉にかけて汚染されてるような感覚を覚えた。 確かに此れは体に害を及ぼしそうなものだと考えてみたりもする。 だが普段の生活とは違い、何処か充実しているようにも思えたのだ。 こうして何も無い日常から突如として舞い込んで来た此れは確実に『刺激』と言えるのだろう。 ずっと笑われるのもしゃくなので、私は必死に煙草を吸えるように努力をしたのだった。 皆に出来て私に出来ないわけがない、たった深呼吸を繰り返すだけの作業なのだから。 そんな事、生まれたての赤ん坊ですら出来る事だ。 そんなムチャクチャな思考はなれない煙草のせいだ、と割りきって火をつけられた煙草を吸うのだった。 そう、初めは『ちょっとだけ』のつもり。 其れがドンドンとエスカレートしていってしまうのだ。 非行 U 初めは皆そうなのだ。 ちょっとだけのつもり。 ましてや自分がちょっとだけのつもりで行った行動が、エスカレートしよう等とは考えたりはしないのだ。 何故なら自分自身が其れに対し、殆ど興味を示したものではなく、自分にとって何の面白みも無いからだ。 なら人は何故興味の無い事をしてしまうのだろうか。恐らく其れは新しい刺激を求めているのだ。 例えば煙草。煙草は誰もが知る通り、百害あって一利なしの麻薬のような存在だ。 だがかくして人はそんな禁忌をかいやぶってまで其れを手に入れようとしてしまう。 其の幅は子供から大人、御年寄りと幅が広く、喫煙者の間では求めてやまないモノになっている。 購入も簡単で、一般的な値段としては二七〇円から高いものでは三〇〇円を超えてしまう。 そんな事で自分が求めるモノは何なのだろうか。 一時の快楽。 居心地の悪い環境だからこそ、自分自身で何かを見つけ、行動し、其れを自分の安らぎの為へと利用してしまう。 煙草等もそうなのだ。学生が非行をするので一番目立つのも恐らくこの喫煙ではないのだろうか。 法律では二十歳からと定められたこの喫煙は、今では殆ど守られることもなく、学生服を来たまま、 平気で外でぷかぷかと其れをふかしているのが良く見られる。 時折警察に見つかって補導されているのを見かける事も少なくはないだろう。 学校という何の訳も分からず通わされ、何の理由もなく、大人によって縛られた一種の監獄のような場所。 其れに従えるのなら其れは将来を築く為のモノにもなり、接し方を間違えればただの監獄の檻と化してしまう。 学校が決めた校則を守り、極平凡な生活を送っている私こと弓塚 直樹。 だがどんな人であれ、ひとたび其のレールから外れてしまえば後はゆっくりと堕ちて行くだけなのだ。 分かっている。そんな理屈は。 誰に教えてもらったわけでもなければ、勉強したわけじゃない。 だが普通に考えれば其れがダメだという事位、安易に想像がつく。 私は言ったはずだ。煙草を吸わされる前に彼等に、法律で決められているからダメなのだと。 だが其れを分かった上で私は喫煙をし、法律を破ってしまった。 其れがどういう状況であったにしろ、私が法律を破ったことには変わりがないし、理由も無い。 本当は、最初の一口、いや、一本で止めるつもりだったのだ。 だが、煙草をふかすこの目の前の連中はとても楽しそうだった。 彼等もまた、学校という極平凡な生活の中で、自分達が自分なりに見つけた楽しみ方の一つだ。 学校のルール、世の中の規則を破り、自分を自由にしたがっている。 其れは悪い事じゃない。人間とはそういう生き物なのだ。 私も其の一人なのだろうか。別段不満だったわけじゃないこの平凡な生活。 だが、神無月 霊に出会ってからの私は少しずつだが、変わっていってるのだという実感も持っている。 平凡が悪いわけじゃない、だが、人は其れだけでは満足が出来ない生き物なんだ。 生活の中で苦労を知り、楽を知り、楽しみを知り、悲しみを知り、世の中の理不尽さを知り。 そうして私達は子供の間に人を見て、世の中に出て行く。 其処には今のような平凡な世界は恐らく無いのだろう。大人は言う。 社会なんて楽なもんじゃない。学生で居られる方がよっぽど楽だと。 其れが分からないわけじゃないだろう。考えてみれば、朝起きて学校へいき、言われた通りの過程をこなすだけ。 たった此れだけなのだ。其れだけで私達は一日の自分達に課せられた『仕事』をこなしてきているわけだ。 だが、其れは将来、自分が就職したり、自分のやりたい事を成す為の下積みにもなっているのだ。 学校とは考え方一つで自分に有利になったり、不利になったりする世界だ。 一際に学校は将来の為に勉強する所だと言っても、やはり其れには納得の行かない人間も出てくるだろう。 其れは学校という一種のサイクルの中で自分が色々と見て来たからこそ感じ取れる分岐点なのだ。 自分の将来、やりたい事を見つけた人間は、後は其れに向かって突き進むのだ。 其れに学校が必要ないと感じてしまったのなら、其の人にとっての学校生活とは、そう、 神無月 霊が此処へ来ているような感覚へと陥ってしまうだろう。 意味が無い。 彼女は最初にそういった。 だが自分はそんな場所へ登校してきている。 他にする事が無いから。 彼女はそういった。 意味がなく、他にする事が無いから、此処へ着ているのだと。 だが其れには何の意味があるというのだろうか。 其れは神無月 霊本人にしか分からない事なのだろう。 だから私があれこれと考えた所で答えが見つかるわけでもなければ、自分にとって有益なものになるとも到底思えない。 なら私はどう思っているのだろうか。 特別不満でもなければ、そうだ、特別満足しているわけでもないんだ。 ただ世の中の流れに純粋にのっかっているだけで、不満でもなければ満足でもない。 不満じゃないのだから此れでいいんだ。其れ以上望む事は何も無いんだ。 だが其れは満足とは少し違ったことだ。平凡という道にただ流されてしまって錯覚を起こしてるだけなのだ。 だから私は彼等が行っている非行を経験したのだ。 恐らく、理由はこんなところなのだ。不満でもなければ満足しているわけでもない。だからそんな事に関して、 興味も無いのに手を出してしまったのだろう。今は此れ以上何も考えられない。 だから私はそういう事にしておくのだ。煙草に手を出したのは何も吸えないのが悔しいからじゃないんだ。 自分にとって何かしらの新しい動きを見つけたのだ。其れは不満ではなく、自分の理想する満足へと近づく為にだ。 ◇ 私は其の日以来、橘 健次郎と其の仲間と遊ぶ事が増えていった。 最初は色々と修正を受けた。言葉使いや、服装等の容姿関係、勿論だが、一人称にも突っ込みを受けた。 私は私という人間であって他人とは同じにはなれない。だからそんな事はどうでもいい事なんだ。 私は私という人間であって他人とは同じにはなれない。だからそんな事は考える必要も無いんだ。 でも其れだけで私の理想とする満足の領域には到底及ばないのだ。 若い頃なら何でも出来る。そして、善悪の区別がつかない間だからこそ、私達は色々とやって経験を、 其の身で体験して自分の今後の糧にしていかなければならないのだ。 経験もしていないのに其れがどういう事かどうか分かる。其れはいろんな経験を積んできた、 現在の大人にしか使えない言葉であり、行動でもある。 あの日以来、私は変わりつつある、其れが良い意味で変わっているのか、悪い意味で変わっているのか。 其れは今の私には判断出来ない。先が見えるわけでもなければ世の中の何を知っているのかすら分からないからだ。 だから幾ら不真面目な格好をしている連中の言うことだからといって其の全てを鵜呑みに出来るわけではないのだ。 彼等は言った。法律があるのは分かるが、其の法律を簡単に破り易く構成させた世の中にも責任があると。 そう、煙草で私が法律という単語を発した時に言われた事だ。 世界では、未成年者の喫煙が禁止されていて、其の中でも注目すべき事は、 其の対策がきちんと取れているという所にある。とある国では、未成年者喫煙防止の為に、 煙草の自動販売機を一切設置していない国があるという。煙草を購入する場合、居酒屋等で直接購入する位でしか、 方法が無い所だってある。こんなちょっとした対策だけで、未成年者の喫煙は激減するのだ。 そんな態勢も取れて居ない現日本では、未成年者喫煙が増えて当たり前なのだ。 だが、其の責任を国だけに言うわけではない。幾ら設置されていようとも、自分自身がそういった法律がある事を知っているのなら、 やはり幾ら手軽に購入出来る状況下であったとしてもそれは守らなければならないことだ。 そもそも未成年者が喫煙等しなければ、こういった法律も存在しなかったと思う所だ。 茶色く染められた髪、耳に空けられた小さな穴に引っかかる綺麗な金具。 そして、服の胸ポケットの中には、煙草のケースが入っている。 著しくまでも変わった其れは言うまでもなく、俺こと弓塚 直樹だ。 一人称を私から俺にする事に関しての違和感は物凄くあったものの、 やはり周りの男子の殆どが『俺』と使い、私と使っているのは恐らく俺位なものだったのだろう。 使い出してみればすぐに其れには慣れてしまう。 何故なら周りがそういった同じ類だからだ。髪も耳につけられたピアスも、 橘を始め、俺がつるんでいる人間は皆同じような格好をしていた。 俺は少し其れに嬉しく感じていた。元々小学生でも成績は良かったモノの、友達としての感覚はかなり薄かった。 其れは自分が関心を持てなかったからなのだろう。 家に帰ればスグに着替え、家族と平凡な日々を過ごす程度だった。 友達と頻繁に遊んでいるわけでもなければ、親友と呼べる人間もいなかった。 だから、周りには同じ学生、同級生がいたとしても、一つ考え方を変えれば俺は一人だったのかも知れない。 何時ものように学校へ登校し、授業を受け、放課後学校の正門前にて橘と合流して遊びに行く日々を送った。 そんなある日、俺は髪を染めてピアスを空けてしまった。 でも別に其れは法律に触れるわけでもないし、空けたからといって警察に補導されるわけでもないのだ。 其れが厭になれば又、黒く染め直して、ピアスも外してしまえばおわる事なのだから。 「お前も変わったなあ、弓塚。まさかお前が此れ程までに変わるとは思ってもなかったぜ。ははは。」 そんな声が俺の耳にはいってくる。声の主は床に胡坐をかいて座って煙草をふかす橘 健次郎の姿だった。 何がそんなに面白いのか、声を大にしてそんな事を言い、高笑いをしていた。 「何だよ、いきなり気色悪いな、橘。俺だってこんな面白い事があると思ってなかったんだ。 小学生の頃とかは、ホント真面目な子で通してたし、其れに不満はなかったからね。 今考えると、お前等と遊んで経験する事はどれも此れも触れた事の無い事ばかりでとても面白いよ。」 そんな俺の言葉に相づちを何度も打つ橘と其れの仲間が居た。 「けどよ、いきなり此処まで変わったら学校の連中も驚くだろうな。特にお前の親とかどうなんだ?」 そういえば髪もピアスもいきなりだったし、煙草を吸ってるなんて事は勿論親には知られていない。 髪とピアスはもう誤魔化しようがないので、家に帰って素直に自白するつもりでいる。 別に染めたって其処まで怒られやしないだろう、という安易な考えの結果だ。 「まあ、バレたらバレたで其のときさ。適当に理由くらいつけてやる。」 そんな一言で俺は大丈夫だ、と仲間に訴えかけた。 すると驚いたのは他でもない、橘 健次郎だった。 「お前、ホントに変わったな、煙草を吸う前なんて法律がどうの言ってた奴だったのにな・・・。」 だが其の状況を変えたのは誰か分かっているのだろうか。 紛れもなく俺を誘い込んだお前のせいだという事位、自分で分かっているだろう。 橘にしろ其の仲間にしろ、俺が此処まで変わると本当に予想は出来ていなかったのだろう。 自分も予想しなかった出来事に心底驚いているようだった。 とはいえ、俺は橘を責めるつもりもない、事実そういう事で今自分が楽しい事に変わりはないのだから。 不満に思わなかった平凡の日々、今思い返せばどうしてもっと早くに満足していない事に、 気づかなかったのだろうか、と後悔すら浮かんでくるようだった。 非行 V 学校を無断で休んでからもう一ヶ月になろうとしている。 依然として私の部屋で音を立てるモノは私の静かな呼吸と、無機質に刻まれていく時計の針の音位なモノだ。 「静かでいい。」 私はそんな言葉をもう何十回、何百回と零しただろうか。 気が付くと私は部屋の天上を見上げながら時々そんな事を口走るのだ。 あれほど鬱陶しく感じられた時計の針が時を刻む音も今となっては慣れたものだった。 頭の中には今まで短い間ではあったが、経験してきた事が走馬灯のように延々と繰り返していた。 馴れ馴れしくも声をかけてきた弓塚 直樹の事。 莫迦みたいに自分の醜態を曝け出す橘 健次郎の事。 行きつけの喫茶店があるといって連れていってくれた倉田 岬の事。 恐らく心配してるであろう担任の紅蓮 明人先生の事。 考え付くのは少しでも関わったことのある人の名前だけ。 自分がこの先どうなってしまうのだろうか、なんて事は一切考えていなかった。 考えてどうかなるわけでもなければ、其れに後悔している暇もないし、後悔するつもりもないからだ。 もとより私には何も無いのだ。失われた記憶を探そうと考えてるわけでもないし。 だから病室で目を覚ましてからの新しい記憶がそんな悩みを消してくれると信じていた。 失われた過去の記憶は呼び戻せるわけではないのだ。修復の出来ない位にまで壊れた機械のように。 なら其の断片的に生じる記憶の隙間をどのようにして埋めてしまうのか。 やはり其れは此れから先の新しい記憶、思い出で断片的に残された記憶ごと塗り替えてしまう他無いのだろう。 其れは塗装が剥がれた壁の上から新しいペンキを塗って塗装していくようにして。 だが人間の心はそんなに安易なモノではない事も知っている。 ただ上から塗装するだけで変わってくれるなら、どれほどまでに楽なことなのだろう。 そんな事が出来るのなら、人は自分の醜い過去をそうやって簡単に塗りつぶしてしまっているに違いない。 何がそうさせてはくれないのか、其れは周囲の記憶が存在するからだ。 幾ら自分が知らない、忘れたといっても他人が其の時の記憶を明確に残していたのなら、 其れはやはり忘れた自分、見覚えの無い自分にしても真実として映し出されてしまうだろう。 其の人の言葉一つで忘れていた記憶がいきなり蘇生する事だってありうるのだから。 私は何をしているのだろうか、こんな場所で。 私は何を考えているのだろうか、こんな場所で。 私はどうして見つめているのだろうか、こんな何も無い天上を。 私はどうして学校へ行かなくなったのだろうか、本当に意味が無いと悟ったからだろうか。 全てに対する答えは恐らく識っている。 何もしていないのだ、それも自分の寝床で。 関わった人間の事を考えているのだ。自分の寝床で。 別に見つめているわけじゃない。ただ視線が天上だったというだけだ。 完全に意味が無いと悟ったのではなく、此れ以上人と触れ合う事に怖さを感じたからなのだ。 私は心に傷を負ってしまった。過去にされた忌まわしい出来事と共に。 其れを私は一生背負ってしまうのだ。突然与えられたペナルティ。 其れを克服する事に私は負けてしまっているのだ。だからこそ学校へは行かず、 私は以前の何も無いままの私へと戻りたいと思っているのだ。 其れが本心かどうかは分からない、ただ格好悪い本心を隠す為に装飾してるだけかも知れない。 だが私は踏み出せ無い。後一歩を、こんなにも人の事が気になっているのに。 どうしてかあの場所へは戻りたく無いのだ。このまま一年もすれば皆の記憶の中の私は、 綺麗に消えてくれるかもしれない。消える事は恐らく無いだろうか、忘れてくれる。 記憶が薄れてくれる。其れは次第に神無月 霊という人物をいろんな思い出と経験で塗り替えてくれる。 塗装がはがれるように、私は皆の記憶から削り落ちて行く。 そして新しい塗装がされるように、私は皆の記憶の中の私を新しいモノで塗り替えて行く。 そうだ、其れでいいんだ。そうすれば私はまた独りになれるんだ。 其処に何があるわけじゃない。でももう、あれこれと考えるのは疲れたのだ。 このまま逃げ続けていけば、もう弓塚の莫迦に付き合わされることもなくなるだろう。 橘のようなもっと典型的な莫迦とも関わらずにすむだろうし。 面倒で退屈な学校へ毎日朝早く起きて登校する事もしなくて良くなるだろう。 そんな事を考えながら私は学校へ登校しなくなり、一ヶ月が過ぎてしまった。 カチカチカチカチ。 無造作にも刻まれる其れは容赦なく私を流していくのだ。 コンコン。 そんな音に混じって、ドアをノックする音が聞こえた。 まさか弓塚の莫迦じゃないだろうな。いや、若しくは橘の莫迦か? 若しくは倉田 岬だろうか・・・。 私は実に一ヶ月ぶりにドアを開く事になった。 ◇ 今では随分と煙草の扱いにも慣れてきていた。 あれほどまでに鬱陶しいと感じた煙草の匂いもそう気にやむ事がなくなった。 あの日、家に帰った俺は母親から物凄く怒られてしまった。 当然といえば当然だし、其れに何不自由なく育った俺にとってこの変化は、 母にとっては余程ショックだったらしい。当然といえば当然か。 だが其れは母親の一方的な思いの他ならない。 子供には子供也の自由ってものが存在するのだ。其れは今の母親には到底分からないものだ。 父親からは拳骨のプレゼントを手堅く頂いた。頭の上に星が見えそうな位痛烈なものだった。 だがそんな事より俺は今のこの自由な空間が大好きだった。 普通に縛られてきた環境とは違って、規則なんかに囚われず、自分自身の楽しみを沢山見つけたのだ。 此れ程幸せな事は今までに味わった事がなかった。故に俺は夢中だった。 母や父の言うことなんて右から左に流しておいて俺はさっさと寝てしまうことにした。 翌日、朝から橘の携帯より連絡が入った。 携帯電話なんてモノは俺には良く分からなかった。 別段必要性を感じるわけでもなかったので、携帯電話は持っていない。 なので電話は何時も家の電話だった。朝から珍しく電話がかかってきたので受話器を取る事にする。 予想は的中。橘 健次郎だった。というのも此処最近朝に時折橘が連絡をよこすようになっていたのだ。 というのも学校が面倒だから朝から学校をサボって遊ばないか、という誘いだったのだ。 其れに対し、俺は流石に其処までするのはマズいと判断して毎回断り、自分はちゃんと学校へと出席していたのだ。 だがこの日は違ったのだ。橘は受話器の向こうでこう言った。 「今さ、神無月 霊の所に居るんだ。どうだ?此れならお前も学校よりこっちを選ぶだろう?」 確かに言われて見れば其の通りだ。俺が最近学校を楽しいと思えたのは他でもない、 神無月 霊が学校へきていたからなのだ。 だがそんな彼女も既に学校へこなくなってから一ヶ月が経ってしまっていた。 あれから何度か彼女の家へいったりはしていたのだが、いつも返事が無いままで、 次第にいかなくなってしまっていたのだ。 そんな話しを聞いて俺はただ分かったとだけ言って受話器を切り、学校の準備をして制服を着込み、 神無月 霊の家へと出向くのだった。 この時、勿論神無月 霊に出会ったら遅れてでも学校へ行くつもりだった。 ◇ ドアを開くと其処にいたのは紛れもなく担任の先生だった。 紅蓮 明人。入学から顔をあわせ、其れから毎日顔をあわせる事となった大人の人だ。 「何か用ですか、先生。」 何か用ですか、とは良く言ったものだ。どんな用件で着てるのかなんてどんな莫迦でも考えつく事だろう。 一ヶ月以上もの無断欠勤をしているのだ。其れできている事位分かる。 私は玄関先でドアノブを掴んだまま、先生の方へと視線を向けていた。 すると先生はゆっくりと眼鏡を外してこういった。 「良かった。何か事故にでも巻き込まれてしまったのかと少し心配したけど、そんな様子もないようだね。 時々弓塚君と橘君に頼んで様子を見に来てもらっていたんですけどね。返事が無いと何時も困ってました。 本来なら私が一番初めに神無月さんの御自宅へ御伺いしなければならない立場なのですが、 生徒の突然の無断欠勤には何かしら理由がついてくるし、其れは先生にはとても言いづらい事であるケースが 非常に多いのですよ。だから私は敢えて、神無月さんと仲の良い彼等に行かせたんです。」 そんな事を延々と玄関先で喋っている。 そんな御託はどうだっていいんだ。結局の所この先生は私に何を求めにきたのか。 いや、其の理由は分かる。無断欠席をして学校へこない理由を話せ、そして学校へ来い。 この二つしかないのだろう。そんな先の事が分かっていたから私はつい苛々してしまい、 自分でも分かる位に先生をにらみつけながら、 「其れより単刀直入に用件を述べたらどうですか?」 一瞬先生がビクりとしたように見えたが、其れはどうやら私の錯覚だったらしい。 目の前には先ほどと同じような態度でこちらを見つめている先生の姿があった。 其の顔は、この一ヶ月、暗闇で過ごして来た私にとってはとても痛々しいものだった。 「なら、そうしましょう。神無月さんが学校へ来ない理由はなんなのですか? 私で良ければ話してくれませんか?」 予想は的中する。結局先生といってもこういうのは上辺だけなんだ。 自分の立場が危うくなるからとか、学校の評判だとか。 結局公務員といっても自分の立場や生活の為に『仕事』をしているだけで、 本当に生徒の事を信じてやまない教師なんて居ないだろう。 そんなのはドラマの中だけの話しだ。現実にそのような教師が居るとは到底思えない。 マニュアル通りに話しをしているような、そんな機械染みた人間はとても醜い。 紅蓮 明人も恐らく其の一人なのだろう。気分が悪い。 「先生に話した所で解決する問題ではないので話しをするだけ無駄だと思います。」 目の前の人間を真っ向から拒絶するように私は言った。 だというのに目の前のソレはにっこりと微笑むのだ。 「そうですか。なら仕方ありませんね。そうなると学校にはまだ当分来ないみたいですし。 何があったかは深く聞きません。ですが、学校へは来ないと神無月さんが困ることになるのですよ? 其れは分かっていますね?」 一般的な人間になら其れは分かる話しだろう。だが私の場合は少し違うのだ。 過去の記憶が殆どなく、此れから先生きて行く事にすら興味の無い私にとって、 私がこの先どうなってしまおうと実際問題関係無いのだ。 それに私がどうなってしまおうと困る人間等一人もいない。家族だって分からない私だ。 居たのは確かだろう、でないと私はこの世に存在していないことになるのだから。 だから、もし今、何かしらの事故で死んでしまっても、構わない。 暫く無言で居ると、紅蓮 明人は其れじゃまた、と丁寧に御辞儀をして去っていってしまった。 内心もう来なくていいと思っていた。結果は同じ事の繰り返しだと思うから。 私はまた先ほどと同じようにしてベッドに仰向けになり、走馬灯のように巡る記憶を眺め、天上を見上げるのだった。 ◇ 神無月 霊の家の付近まで近づくと誰かに呼び止められる声がした。 ばっさりと切り落とされ、爽快なまでに逆毛になった金髪。 其れは紛れもなく橘 健次郎の姿だった。 橘が駆け寄ってくるとぞろぞろと後ろから何時も顔をあわせているメンバーが居た。 よう、と軽く挨拶をして手を上げる橘 健次郎。 それに応えるようにして俺も同じ事をして返してやる。 だが其処には神無月 霊の姿はない、となると彼女はまだ家の中にいるという事になるだろう。 まあ、流石に神無月 霊と一緒に居るとは言ってなかったので期待はしていなかったのだが。 等と考えていると急に物凄い重力を受けたかのようにして真横に引っ張られた。 自分の右腕には何者かに掴まれたような感覚がある。 其れは刹那。 俺は近くにあった木の影へと引きずりこまれてしまった。 一瞬の出来事で何が起きたのかを把握するのに少しの時間がかかってしまったが、 横を見る事で其の疑問は簡単に解決してくれた。 ぼーっとつったっている俺を橘が物凄い勢いで俺の腕を掴んで引っ張った。 ただ此れだけの事だった。そしてそれには理由があった。 「今、神無月 霊の家の前に先公居たぞ。見つかったらやべえ、学校に連行されちまう。」 そして俺は確認の為に木の影から神無月 霊の家の前を直視する。 其処には黒いスーツを来た紅蓮 明人先生の姿があったのだ。 どうやら先生も神無月 霊に用事があったらしく、しかし、其の足取りには元気さを感じさせなかった。 恐らくは学校へ連れてこようとして其の交渉は決裂してしまった。こんな所だろうか。 先生が立ち止まり、一瞬空を見上げる。そして深い溜め息を付きながら学校の方角へと足を進めていく。 其の姿を俺と橘達は何も言わずに見つめていた。担任の力でももうどうにでもならないのだろう。 後日知るのだが、橘は何時も誘っても来ない俺を出し抜く為に神無月 霊の家へ行くというのは嘘で、 この後ゲーセン等で遊び周る予定だったらしい。が、この時橘は神無月 霊の事が気になったらしく、予定は急遽変更された。 俺と橘達は先生が居なくなるのを確認すると、足早に其の場を後にして、神無月 霊の玄関先へと急いだ。 インターホンが無いので仕方なくドアをノックする事にする。 暫くするとドアが開いた。 其処には今までの神無月 霊の姿はなかった。 黒く、深い眠りから目覚めたばかりのお姫様のようなイメージだろう。 酷く疲れているようにも見えたが、其処には何時もの霊の気迫は感じられない。 「・・・今日は来客が多いな。何か用なのか?おまえ達。」 言葉使いは何時も通りの霊のままだった。其処だけは少し安心してほっと胸をなでおろす。 続けざまに橘は続ける。 「さっき此処に紅蓮 明人が来てただろ?何話してたんだ?学校へ来いって言われたのか?」 質問責めだった。だが其れは全て的中している。 霊はああ、とだけ頷いて他に用が無いなら帰れと一言だけ告げてドアを閉めようとした。 刹那。俺はゆっくりと閉まるドアの端を掴んでドアを閉める霊の妨害をしていた。 気づいて慌てて手を離したのだが、霊は俺の顔を見て不思議そうに見つめる。 そして、 「おまえ、誰だ?」 一瞬記憶喪失にでもなってしまったのだろうか。そんな事を思ってしまう。 霊の余りにも予想にしない言葉に俺は愕然とした。 あれだけ一緒に話して、プライベートで会話していた俺を忘れたというのだろうか。 いや、霊に限ってそんな事はない、ただ何時ものようにからかってるだけなんだと思った。 「俺だよ、俺、弓塚 直樹だ。」 俺は名前を言う。不思議な気分だった。あれだけ話していた相手に対してどうして此処まで躍起に、 自分の名前を叫ぶ必要があるのだろうか、と。 次の言葉で俺は重大なことを見失っていた事に気づく。 「ああ、弓塚か、前のような成りじゃなくなっててぱっと見ただけじゃ誰だか分からなかったぞ。 変わったな、おまえ。この一ヶ月で何があったんだ?」 そうだ、今の俺は霊の知ってる弓塚 直樹とは違っていたんだった。 髪は黒から茶色へ、ピアスも開け、髪型も少々だが変わっていた。 だからだ、だからぱっと見ただけじゃ俺が誰だか認識出来なくなっていたんだ。 考えてみれば人は外見を少しいじるだけでまるで別人のようになってしまう。 其れはそう、以前倉田 岬が話していた恋人と同じようにして。 「あ、ああ、此れはさ、俺が学校で見つけた楽しさなんだ。 霊は最近どうしてるの?学校にも来ないで一体何やってるんだ?」 俺は言う。 霊は面倒臭そうな顔つきになり、紅蓮 明人と同じようにして深い溜め息をついてこういった。 「おまえこそそんな莫迦みたいな成りになって一体何やってんだ? そんな今のおまえに私が今何してるのかなんて聞かれたくもないな。」 そういって霊は俺から視線を外して勢い良くドアを閉め、其れっきりノックしても出て来る事はなかった。 何だか学校へ行く気も失せてしまったので、橘が予定しているゲームセンターへと俺等は向かうことにした。 この日初めて俺は学校を無断欠席というカタチで休む事となった。 今日一日位、休んだってどうって事ないだろう。 そんな考えが暫く浮かんだのだが、そんな考えはゲームセンターについた途端消え失せてしまっていた。 非行 W 神無月 霊の家を後にした俺と橘達は何時も溜まり場にしているゲームセンターへと着いた。 橘はゲーセンにつくや否や得意の格闘ゲームの椅子に腰掛けていた。 俺はゲーセンには殆ど興味がないので此れといってやるようなゲームは無いのだが。 仕方ないので、橘のゲームを見る事にする。とはいっても何が起きてるのかサッパリだった。 橘の手の動きはとても早い。一つのボタンを連打してるのかと思えば一瞬にして隣のボタンへと指を移動させて、 また連打を繰り返していた。左手で器用にもレバーを動かしながら、対戦相手の懐に潜りこみ、コンボを繰り返して行く。 そんな調子でかれこれ彼は二十連勝をしていた。画面に20WINと書いていたのがそうだ。 次第に人がいなくなり、橘の後ろには俺と橘とつるんでる仲間が四人いた。 暫く其れを観戦していると。俺等と同じような成りをした連中が橘のゲームの台の向かい側に座り、乱入をしてくる。 「まぁ見てろって、コイツもボコボコにしてやる。」 そういって一瞬俺の方へと視線を向け、上辺使いのような態度を取り、またゲームへと視線を向けた。 結果は橘の負けだった。 何でも此処まで精密に動くプレイヤーとは出会った事がなかったらしい。 まぁたったワンコインで二十回もの連勝をしていれば問題は無いだろう。 其れは俺も思っていたし、橘本人が其れを強く感じていた。そして俺等が別のゲームへと移動しようと、 橘の対戦相手であったゲームの台の横を通り過ぎようとした時。 「雑魚ばっか相手して強がってんじゃねーよ、雑魚が。」 ゲームの台に座る男の低い声が聞こえた。 其れと同時に後ろで俺等と同じようにして見ていた連中が一斉に笑いだす。 たかがゲーム如きで何強がってんだ、と内心思っていたのだが、こういう莫迦は相手にしない方が得策だと判断し、 其の場を何も言わずやり過ごそうとした矢先だった。 橘が立ち止まる。くるりと向きを変えて、対戦相手の顔を見ながらこういった。 「ゲーム如きで何強がってんだよ。バーカ。」 そういって橘はまた向きを変えて先ほどと同じようにして歩いていく。 そんな後ろ姿を見つめながら俺等は橘の後を付いていった。 勿論この時、我慢出来なくなったのは相手側であるのは言うまでもないのだ。 正直俺は橘が其の拍子に殴りかかると予想してしまっていた。 こういう成りをしている人間というのはちょっとした煽りですぐ頭にきて実力行使に出る傾向が多い為だ。 ガンッ! 何かを殴ったような音が聞こえた。 振り返ると其処にはゲームの台に蹴りを一発打ち込んだような傾向があった。 いや、ような、ではなく、其れは明白な事実だろう。 片足だけ上げられた足はゆっくりと自分の足元へと戻って行く。 顔を見てみると、髪は首元まで伸びていて、其れこそ綺麗な金髪をしていた。 顔立ちは良く分からない。原型をとどめない位に眉を吊り上げ、眉間に此れでもかという位に皺をよせていた。 「おいおい、其処のカス野郎が!今何つった?あん?」 声を大にして発せられた其れは明らかに橘に向けてのモノだった。 再び橘は立ち止まると、 「聞こえなかったのか。ならもう一度言ってやる。 ゲーム如きで何強がってんだよ。バーカ、っつったんだよ。」 丁寧にも先ほど言った言葉を綺麗に復唱する橘。 この時点で負けたのは相手側なのは事実だろう。 みっともない話しだとは思わないだろうか?たかがゲームで相手に罵声を浴びせ、 確信をつかれたのだから、聞いてるだけで呆れてくる光景であるのだが。 こういう成りをした連中同士の間ではこういったバカバカしい原因で喧嘩になるケースも実は少なく無い。 「上等だ。お前。ちょっとこっち来いよ。」 そういって男は橘の腕を引っ張って強引にもゲームセンターの外へと連れ出していく。 この後の展開は誰にでも予想は出来ているので俺等は橘の後を追って外へ出て行く。 連れてこられた場所はゲームセンターから少し離れた路地裏だ。 此処のゲームセンターは設置条件が悪く、辺りには人が殆ど通らない。 だからゲームセンターに来るのはこういうならず者ばかりなのだ。 人通りが少ない、というのは人目に付かないという事だ。こういう場所を不良は好んで溜まり場にするのだ。 店の人間も殆ど顔を出しておらず、ゲームセンターは長い間掃除を行われた形跡が無い。 いや、其れ以上に此処は不良で溢れかえり、掃除しても追いつかないという所だろうか。 辺りに人は居るものの、其の殆どが変型のズボンを履いていたり、髪の毛が染められていたり、 俺と同じくピアスがあけられていたり、ゲームセンター内には禁煙と赤い文字で大きくかかれているにも関わらず、 ゲームセンター内で煙草を平気でふかす連中も多い。橘も実はその中の一人だ。 薄暗い路地裏に辿り着くと腕を離し、くるりと向きを変え、橘をにらみ付ける男が居た。 同じくして橘は、この後の展開が読めている為か、先ほどの態度とはうってかわって豹変する。 鋭い目つきをしている。其れだけで相手を圧倒できてしまうかのような目つきだ。 今までこんな目つきをした橘を俺は見たことがない。何か近寄り難い雰囲気が路地裏一帯を染めて行く。 人目の着かない路地裏をステージに選択するなんて、本当に単純だな、とは思いつつ、 彼にも一応考えはあったようだ。 「此処は誰も通らねぇ路地裏だ。泣いて喚いても助けになんて誰も駆けつけてくれねぇからな? 俺に生意気な口を叩いてタダで済むと思うなよ?中坊が!」 丁寧に路地裏へと連れてきたワケを話す男は言葉を切っていきなり橘に殴りかかる。 其れは一瞬の出来事だった。しいていうのなら、先ほど橘がやっていた格闘ゲームの実写版という感じだろうか。 男が振り上げた右手は拳の形になり、橘の左頬へと直撃する。 ボグ、という鈍い音が鳴ったのと同時に橘は首を殴られた方向とは逆の方へと振り向く。 殴られた反動で首が動いてしまったのだ。 少しよろよろとよろめいたのだが、橘はすぐに態勢を立て直し、殴られた部分を手でさすりながら、 「其の程度か、大口叩く奴あ、其の程度のパンチしか出来ないか。」 橘からは余裕が感じられる。橘と殴りかかってきた其れの周りを囲むようにして、 俺等は輪を組んでいた。相手側は其の橘の一言で完全にキレたように見えた。 刹那、彼は何処から持ってきたのか、金属性のバットを取り出して再び橘に襲いかかる。 こんなモノ、当たったらタダじゃすまない事位は、殴る側だって見てる側だって安易に想像がつく。 橘は身構えると自分に向かってくるバットをいとも簡単に交わしてしまう。 橘に此れだけの運動神経があったのは正直驚きだった。 後に知るのだが、彼は二年ほど前にボクシングを習っていたという事が分かった。 だから何も格闘技をしていない素人の攻撃は見え見えなのだという。 ボクシングでは勿論殴り、殴られが頻繁にある為、鍛えられていない人間の拳程度じゃびくともしないのだという。 交わされた衝撃で態勢を崩した男はすぐ様態勢を立て直そうとする。が、 其れよりも早く橘の右足がよろめいた男の腹部へと綺麗に入った。 橘が殴られた時よりも重い音が路地裏全体に響き渡る。 男の口からどろっとした液体が流れだしている。其れを見た橘はうつ伏せになった男の上へ、 高々と右足を上げ、一気に振り下ろした。 三度目の鈍い音が路地裏に響く。其れと同時に男の喘ぎ声が重なっていた。 見ると完全にうつ伏せになって倒れてしまっていた。 どうする事も出来ず、男はただびくびくとだらしなく痙攣を起こしているだけだった。 一同唖然としてただ其の光景を見て居るだけしか出来なかった。 其の男の仲間も橘を止める様子もなかった。いや、怯えてるようにすら見えた。 「泣いて喚いても助けはこねえよ。」 先ほど言われた言葉を橘は男に発する。 そして其れと同時に男の持っていた金属製のバットが床に転がっているのを見つけると、 其れを拾い上げ、右手でしっかりと握り締めるのだ。 何も其処までしなくても良いと思ったので俺は橘を止めに入った。 「おい、橘、もういいだろ。此処まですりゃ十分だ。」 俺は橘にそういってどうにか気を静めるようにと頼んだのだが、 橘は俺の方へと視線を向け、此れ位じゃ済まされないとだけ小声でいって視線をまた戻してしまった。 こうなると恐らく全員でよってたかっても止められない。寧ろ被害者が増えてしまうだけだ。 どうする事も出来ないが、こんな事態を招いたのは今無様にも痙攣を起こして何も喋らないこの男本人なのだ。 自業自得である。俺等はもう其れで納得する他なかった。 あれからほんの数分の時が流れた。 何度も何度も金属製バットで倒れた男を殴り続ける橘 健次郎。 其の動作には何の躊躇いもなく、このまま殴り続けてしまえば、男は完全に死んでしまう。 骨が砕けたような音が何度も何度も路地裏に響き渡る。 情け無い男の叫び声も同じくして何度も何度も路地裏に響き渡っていた。 暗い床がゆっくりと赤いペンキで染められていく。 何処からか溢れ出した其れは良くみてみると男の後頭部から流れ出したモノのようだ。 確認するまでもなく、其れは『血』だ。赤く、赤く、鮮明な赤い血だった。 暫くすると男は声を出さなくなってしまった。 其処でようやく殴るのを止めた橘は、くるりと男の仲間の方へと体を動かすと、 男の仲間達は其れだけでビビリ腰になり、其の場にぺたんと座りこんで命乞いをするのだった。 とはいっても震えて声が出せないようだったが、目には薄っすらと涙が滲んでいたのが分かった。 「戦う相手は選ばないとこうなるって事をよーく覚えておくんだな。」 其れだけを言って橘は金属製のバットを持ったまま、俺等の前へ戻ってくると、 一瞬にして表情は砕け、何時もの橘へと戻った。 「おう、すまんかったな。んじゃ行こうか。」 そういって橘は俺等を連れてゲームセンターを後にするのだった。 ◇ 一ヶ月・・・。 其れは長いようで短い時間だ。とても短い。其れでいてとても長い、長い時間だ。 一ヶ月という時間があればどんな事が出来るだろうか。 仕事で言うのなら、念願の給料が貰える事だろう。 もっと極端に言うのなら、夏休み一回分の月日だ。 其れが長いとなるのか、短いとなるのかは、自分の生活次第なのだろう。 こんなちっぽけな世の中に、一体何があるというのだ。 行きたくもない会社に毎日苦労して出かけて、上司にへこへこしながら仕事をこなす毎日。 一体人は何の為に生きてるのだろうか。良く・・・分からない。 私こと神無月 霊はただぼーっと天上を見上げていた。 この風景にも飽きてしまった。其れは一ヶ月という時間絶え間なく続けて来た結果だ。 ふと私はベッドの下に置かれた二つの大きな缶詰に目を向けた。 其れは以前、弓塚と倉田と行った喫茶店で買った二種類の紅茶だ。 一つは私が倉田に薦められて飲んだローズティーの缶詰。 もう一つは倉田が選んだ紅茶、段々と色が変わる不思議なブルーマロウティーだ。 まだ一度も開けていないこの二つの缶。私はローズティーの缶を手にとって開けていた。 この二種類の紅茶は、何か自分にとって特別な事があった時にだけ飲むようにと決めていたのだ。 其れを開けた今、私にとって何か特別な事があったのだろう。 そう、特別な事はあった。 其れはこの間家に来た弓塚 直樹の変化によるものだ。 綺麗に整った黒い髪、其れに似合う顔立ち、何時も制服で全身真っ黒な印象を強めていたアイツが、 私の知らない所で色々と、変わってしまっていた。 髪は金髪になっていたし、耳にはピアスが開いていたし、一人称も私から俺に変わっていた。 私は丁寧にローズティーを取り出してティーカップに注いでみた。 あの頃経験した時と同じ、良い香りが私の体中を刺激していた。 「おまえ、本当にかわっちまったな。」 そんな言葉を零しながら私はローズティーを一口運ぶ。 美味しかった。何も変わらない、あの時と同じ味と香りが私を包んでくれる。 頭を駆け巡るのは弓塚とのくだらない思い出ばかりだった。 「どうしておまえそんなに変わっちまったんだ・・・?」 誰も答えてくれない。 私の声はむなしくも部屋の中で亡くなってしまう。 無造作にも揺れる時計の振り子。時を刻む針の音。 今は聞こえてこない。今はただ、弓塚との思い出が色濃く映し出されていた。 淡い色でティーカップを染めているローズティーのように・・・。 この一ヶ月という短いようで長い時間。 この一ヶ月という長いようで短い時間。 たった一ヶ月という時間で変わってしまったアイツ。 たった一ヶ月という時間で変わってしまったワタシ。 「やっぱ、莫迦だよ、おまえは。おまえみたいな男は嫌いだよ。」 またそういって私はローズティーを再び口へ運んだ。 真っ白い頬は濡れていた。其れを誰にも見られたくないかのようにして、 私は窓に背を向けてローズティーを飲んでいた。 世界は晴天。雲ひとつない鮮やかな青い空。 あの日、弓塚と倉田と出かけた日のようにして広がっている。 私は、どうしてこんなにも悲しいのだろう。 私は、どうしてこんなにも泣いているのだろう。 私は、どうしてこんなにもアイツの事が気になるのだろう。 私は、どうしてこんな所で死んでいるのだろう。 涙は教えてはくれない。自分が悲しいという事、自分が辛いという事だけを伝えるだけで。 涙は教えてはくれない。此れから自分がどうすればいいという事なんて。 晴れた空は今の私には少し重すぎて辛かった。心地よくしてくれる筈のこのローズティーも、 とても、とても哀しくて辛かった。私の心には見えない雨が降り注いでいるようで。 役目を果たしたティーカップは何を言うわけでもなく、ただ私の方を見ているようだった。 そんな事はお構いなしで私はまたベッドへと潜りこんだ。 カチカチカチ。 何時もと同じリズムを刻む時計の針の音は無関心だ。 理解してくれなんて事は言わない。ただ今だけは、何でもいい、私の心を教えて欲しいだけ。 こんな気持ち初めてだった。そうだ、其れを壊されるのが怖かったから、私は学校へ行かなくなったんだ。 そんな私の気持ちに気づかれるのが怖くて、また何時のも生活を取り戻して、そんな柵から開放されたかったんだ。 私は弱くて、其れでとてもちっぽけな人間だ。生きる事に負け、自分自身にも負けてしまった結果がこの醜態なんだ。 嗚呼、どうしてもっと早くに気づかなかったのだろう、本当はあのどうでも良くてくだらない生活が好きだった筈なのに。 突っかかってくる弓塚のくだらない話しを聞くのが好きだった筈なのに、なのにどうして私はこんな所で死んでいるのだろう。 戻らなくちゃ。 自分が求めていたあの場所へ戻らなくちゃ。 今のアイツをこのまま放っておくわけにも行かない。何よりも自分が求めていた幸せを壊す事なんて出来ない。 生まれて初めてしった人の触れ合い、温かさ。そして其れを失う事の辛さと悲しみを。 「こんな孤独にはもう、耐えられない。」 孤独。其れはずっと私が無視してきたモノだ。 初めから一人だった私にとって孤独なんていう感情は一切経験する事もないし、必要がないものだった。 だが弓塚に関わってから其れは大きなモノとして私に染み付いてしまっていた。 アイツが好きだとは言わない。ただ、変わってほしくないだけなんだ。 何時ものアイツに戻って欲しいだけなんだ。そうじゃないと何時か必ず私が、本当の意味で独りになってしまう気がしたから。 其れが怖いだけなんだ。だからそんな孤独を感じないようにと、感じたくないからって私は家に留まったんだ。 学校をすて、弓塚をすて、私は私で以前の私のまま、世界を共にしていきたいと逃げていたかったんだ。 生きてる意味が無いと感じられる頃は其れで良かった。でも今孤独を知ってしまった私はもうダメなんだ。 生きていかなければ怖くなってしまう。だから私はアイツを連れ戻さなければならないんだ。 アイツを、以前のアイツに戻して、正しい道へと戻してやらなくちゃいけないんだ。 其れは私の為でもあり、アイツの為でもあることなんだ。 もやもやして気分が悪くなってしまった。私は一度振り切ってシャワーを浴びる事にした。 体の汚れと一緒に、心の中の荒んだ気持ち、もやもやした気持ちも洗い流せると淡い期待をして。 「私も、倉田のように生きる目的を見つけられたのかもしれない。」 そう呟いて私は部屋の隅にあるシャワー室へと足を運んで行く。 カチカチカチカチカチカチカチ。 空しく響き渡る時計の音は、やむ事なく部屋の中で響き続けていた。 非行 X 青く広がる空は其れだけで世界の平和を願うようだった。 しかし、世界では色んな所で平和が崩れてしまっている。 ある人にとっては平凡で退屈な日々になっていたり、 ある人にとっては地獄絵図を見せられているかのような日々になっていたり。 そんな事は俺だけではとても把握しきれる問題でもないし、 把握したいとも思わない。ただ世界には自分達と同じような生活だけが 送られているわけではないという事実だけを知っていればいいのだ。 平等。 果たして世界で起こるありとあらゆる理の中、其の全てが平等だと言えるだろうか。 答えはNOだろう。世の中平等、なんて言葉はききたくもないし、 第一何を基準にそんな事が言えるのか。そんなの分からない。 しいて平等だと言うのならば、大きさや規模は違えど「土地」がある。 そして、最低限の機能を兼ね添えた「人間」だという事だけ。 其のほかは不平等だと思う。例えば生まれ持っての才能だとか持ち合わせる人間もいれば、 何をやっても全く開花しない人間だっている。 世界だって、土地の大きさ、環境、経済だって全く違ってくるのだから。 ・・・。朝の陽射しが鬱陶しい。ここのところ橘達と遊び放題やっているので、 生活リズムが狂ってしまっている。家に帰るのも時折朝帰りになってしまったり。 今日は其の類だ。明け方まで橘達と色んな所を周ってはたまってとりとめのない事を延々と話していたり。 はてまたコンビニ等でたまって煙草をふかしていたり、警察に見つかって煙草を取り上げられたり。 時には同じ不良という類のグループに絡まれては殴り合いになったりだとか。 そんな事が俺の毎日を退屈から開放してくれる唯一の楽しみなのだった。 朝帰りは特別珍しいモノではなくなった最近では、朝の鬱陶しい陽射しを受けながら、 ベッドに入り込み、カーテンを閉めて寝るような日々が続く事もあった。 当初は母に涙ながら怒られたり、父には無言で殴られたりもした。 今は、というとそんな事も少なくなってきた。恐らく母も父も諦めたのだろう。 俺にとっては煩い事を言われず、殴られもせず、自分のやりたい事が出来るので好都合だ。 此れは以前俺が父に殴られた時に怒鳴っていた事だが、時折夜遊びしている俺を、 母はアテもなく捜しにまわっていたりするというのだ。知人に電話をかけたり、 学校へ連絡したり、後は自転車をこいでアテもなく捜し回る、という感じだそうだ。 だがそんな事は俺にとって関係ないのだ。見つかったら見つかったで面倒な事になるし、 どちらにせよ朝方には家に帰るのだから別に問題はないと思っている。 母がとった行動の意図は分からない。分かりたくもないのだけど。 朝の陽射しを浴びながら浅い眠りにかかろうとした時、 無感情なコール音が鳴り響く。俺は眠いので電話の音を防ぐようにして 布団を頭まですっぽりと被り、無理遣り眠ろうとしていた。 暫くするとコール音が止み、誰かが俺の部屋へと入ってくる気配を感じた。 とんとん、と布団を叩かれ、俺は無造作に布団をはぎ、目の前に立つ人物を見る事にする。 其処に立っていたのは紛れもなく母親の姿だった。 受話器を持っている所を見ると恐らく先程の電話は俺宛てのモノだったのだろう。 そんな事は言わなくても分かるので母から無言で受話器を受け取る事にする。 受話器を渡した母は、其のまま俺の部屋を颯爽と立ち去っていく。 特別気にする事でもないので、俺は受話器を耳にあて、もしもし、と受話器の向こう側の主へと声をかける。 電話の主は橘 健次郎だった。先程まで一緒にいたというのに、また遊ぼう等と誘われたらひとたまりもない。 ・・・と、予想には反していた。受話器の向こうから聞こえる橘の声には元気がないようにも見える。 いや、正しい表現をするのなら、怒りに満ちて声が低くなっている、という感じだろうか。 其の事実は受話器の向こうから聞こえる内容ではっきりと分かる事になった。 「こないだボコボコにした連中いただろ?俺がゲーセンで絡まれた時の。」 そういえばそんな事があった。橘がゲームセンターで得意の格闘ゲームをしている際、 同じ不良グループの連中に乱入され、橘が負けた時に罵倒を浴びせてきた莫迦な連中の事だ。 今度は数でも集めて喧嘩をおっぱじめようとでもいうのだろうか・・・? 「あいつ等が何か警察にチクったらしくて、今警察から電話かかってきてよ、 其の場に居合わせた連中全員今からT警察まで来い、って事らしいぜ?」 淡々と話す橘の様子には余裕すら感じられるのだが、声は依然として低いままだ。 恐らくは怒りという感情のせいなのだろう。当然と言えば当然だろう。 第一向こうからふっかけてきた喧嘩をただこっちは買った、といってもあれは強制的な連衡だったが、 攻撃されるまでこちらは手を出していない。手を出されたから自分を守る術として、 相手を殴っただけなのだから、どう考えても警察に出頭出来る理由にはならないと思うのだが、 やはり其の男はただの莫迦だったのだろうか、若しくは其れも何かの作戦なのだろうか。 細かい事は警察に行けば全て分かる事なので、此処では深く考えず、 取り敢えず橘の指示に従って俺は眠い体を無理遣り起こして警察へと出向く事にした。 T警察署までは然程、距離はない。 学校へ行く道を少しそれる位で、それ以外は何ら学校へ行くのと大差ないのだ。 時間にして徒歩で約二十分位だろう。だが警察へ出向くのに態々徒歩でなんて行ってられない。 取り敢えず自転車にまたぎ、T警察署へと急ぐ事にする。 T警察には既にこの間の連中は全員集まっていたようだ。 どうやら俺が一番最後だったらしい。其処には何か勝ち誇ったような笑みを浮かべる莫迦な男と、 いまだに苛立ちを隠せない橘の姿、そして其れを宥め様としている橘の仲間の姿があった。 警察の人間はまだ姿が見えなかった。よう、と橘達に軽い挨拶を交わして、適当に辺りを見回す事にした。 辺りはとても殺風景で、何か面白いモノがあるようには見えなかった。 無表情に灯りを与える蛍光灯や、無造作に置かれた沢山の書類らしきモノ。 感情があるのかどうかも分からない紺色の服で身を纏う人々。 暫くそんなつまらない風景を焼き付けていると、何処から出てきたのか、 紺色の服を身に纏う一人の若い男性がこちらへと声をかけてくる。 「皆集まったな?さて、こっちへきて詳しく聞かせて貰おうか?」 穏やかな顔立ちとはうらはらに言葉には感情が無かった。 そんな事については誰も気にしてはおらず、面倒だな、といったような顔つきで、 橘は若い警官に別室へと連れていかれてしまった。 てっきり全員同じ部屋、若しくはこの場で話合いでもするのかと思えばそうではないらしい。 一人一人に聞く事で正確な情報が手に入るのだと後で知った。 時間にして三十分程度だろうか、別室に連れていかれた橘と、 其の後に続いて先程の若い男性警官が戻ってきた。 そうやって順番に呼び出されていった。人数が人数なだけに時間も相当かかってしまう。 それに付け加え、俺等は順番が回ってくるまでぼんやりしておけばいいし、 呼び出されたら呼び出されたで質問に答えるだけでいいが、警官はそうはいかないのだ。 一人一人呼び出した後、休む間もなく、質問をしていかなければならないのだ。 「弓塚 直樹。」 ガチャリと開いた扉の向こうから俺の名前を呼ぶ警官がいた。 やっと俺の番か、等と間の抜けた事を思いながらも言われた通りに俺は部屋へと歩いていく。 別室、と先ほど呼んだ部屋は『取調室』と呼ばれる所だ。良くドラマ等で報道されるあの小さくて 薄暗い部屋だ。全く同じ、とまではいかないが、それに似合った雰囲気を出している。 部屋の真ん中には机が一つある。そして先ほどと同じようにして、無表情な蛍光灯が幾つかあり、 部屋は其れによって明かりを得ていた。部屋の隅にはもう一つ机があり、 其処には別の警官が座っていた。何をしているかまでは分からなかったが、 恐らくは記帳しているのだろう。質問をし、答えた事を正確にメモしていくのだ。 簡単な事からの取調べが始まった。 席につくや否や名前、住所、生年月日等など。 基本的な情報は全て向かい側に座る警官に話す事となった。 だが、そんな基本的な情報は警察にかかればすぐに分かってしまう事ばかりだった。 何故そんな質問をするのか疑問に思ってしまうのだが、面倒事を此れ以上増やしたくはないし、 さっさと終えて家に帰って寝たかったので此処は我慢する事にする。 俺がこうして警察のお世話になるのは覚えてる限りでは初めての事だ。 だが別に緊張しているわけでもなければ、怯えているわけでもない。 ただぼんやりと、何時しか学校で過ごしていたような、そんな雰囲気を出していた。 向かい側にいる警官はいわば学校で授業を教えてくれる先生と同じようなものだ。 質問という名前で出される問題に俺はただ有のままを答えるだけでいい。 たった其れだけの事なのだ。たった其れだけの事に別室へ呼び出されている。 当時の現場を詳しく話してくれというので私は話す事にする。 「俺等はゲーセンで橘がやってる格ゲーを見てたんです。 んで橘が負けたから帰ろうとした時に、其の相手側の連中が橘に文句言ったんです。 まあ、文句というか罵倒・・・ですかね。それで橘は殴ったわけでもないし、 ただそれに対して正当というか、正論を叩きつけただけ。 そしたら向こうが勝手にキレだして橘を連れて路地裏に行ったわけです。 其処にいても仕方ないので俺等は其れについていって傍観してただけですね。」 取り敢えず事件が起きる前の事を話した。 警官は納得したようにうんうん、と頷くと今度は其の後の事を聞いてきた。 此処で納得されるという事は恐らく此処までは皆同じ事を言ったのだろう。 問題視されるのは此処からの事。でなければ此処までされる事もなかったはずなのだから。 私は見たありのままを話す事にする。 「路地裏に連れこまれ、中央に橘、其れと相手グループのリーダーっぽい奴が向きあってました。 んで、俺等は其れを取り囲むようにしてそれを止める事もなくただ見ているだけでした。 実際あの状況では、この後何が起きるかは予想が出来ていましたし、止める事も出来ました。 でも俺は自分等で蒔いた種だと思ってましたし、其の場でどうせ済むんなら別にいいだろ、 というような感情で其れを傍観する事にしました。 最初相手のリーダーが橘に殴ったんですが、其れでやりかえしたわけじゃないんです。 別に其れ位、みたいな感じで、まぁ橘も悪いんですけどね、其処で何も言わなきゃ終わったかも 知れないっていうのに、莫迦みたいに挑発したんです。 で、其れで更に頭にきた相手は金属バットを持ち出して橘を殴ろうとしたんです。 んでも其れを橘は交わして、流石に我慢できなかったのか、腹部に蹴り一発。 相手は其れで沈んだんですけどね。んで、其処でやめとけばいいのに、 橘が先ほどの金属バットを手にとって何回も何回もソイツを殴った、ってわけです。 まぁ流石に俺等も止めましたけどね。結局それで何度か金属バットで殴って終わり、という感じです。」 長々とまぁ正直に此れだけ話せたもんだ、と話してから自分の莫迦さ加減に呆れてしまっていた。 警官は先ほどよりも更に納得した様子だった。 この場合どうみても凶器で殴ってしまったのは橘の方なのだから、 それで相手は『橘が金属バットで殴った』事を強く話していたのだろう。 でなければ訴える意味がなくなってしまう。 呼び出して殴りかかったのは相手の方なのだから、此処をどう捏造して訴えるかがポイントになる。 だがそんなものは他の連中の証言で軽く消されてしまう。しまうはずなのだが、 相手には相手の言い分、こちら側にはこちら側の言い分が出来てしまうわけだ。 例えば揉め事を起こして其れを細かく話す場合、どうしてもこちら側を有利にしようとし、 人は自分の事を棚にあげて、相手を悪くしてしまうような言い方で物事を進めてしまう。 自分が責められるのは誰だって良い気はしないだろう、更にこういう状況なら尚更だろう。 相手がどういう風に話したかは知らないが、此処で納得するという事は、恐らく先ほど 考えていたようなモノであっているのだと思う。 其の後も細かい事を色々と聞かれたのだが、其れも簡単に返して俺の取調べは終わった。 取調室の扉を開けるとガチャリという金属音が鳴る。 そうして扉を開けた先は、先ほどまで俺が立っていた警察署の風景があった。 ほんの数十分前の風景とは何処も変わらずにそれは其処に在った。 取調べはどうやら俺が最後だったらしく。現地解散という事で終わった。 後ほどまた警察から電話があるかもしれないとの事。 また朝早くから呼び出されるのだけは本当に勘弁してもらいたい所なのだが。 帰り際、相手側のリーダーと橘が目を合わせ、鋭い目つきで互いを威圧し、 警察署を出ると別々の場所へと足を進めていった。 帰り、橘は言う。 「俺のせいで悪いな、皆。次呼び出されてもお前等こなくていいからな。 多分呼び出されるのは俺とアイツだけだろうけどな。」 そういって頭をかきながらそういった。 本当に申し訳無いと思っているのだろう。 コイツはこう見えて本当は優しい奴だというのは此処にいる皆が知っていた。 だからこそこうしてコイツと遊ぶ事もすれば莫迦やったりもする。 だからこそ楽しいのだ、そんな毎日が。 此れからどうするのかと聞かれたが、流石にこんな事があった後で到底遊ぶ気にはなれない。 それは此処にいた連中も皆同じ気持ち、そう、どうする?と言った橘本人ですら同じ気持ちだったのだ。 俺は寝る所を邪魔されたので家に帰ってからゆっくりと寝るとだけ伝えて仲間とわかれた。 ◇ 今日はまた一段と空が晴れ上がっていた。 私の心の中も何処か晴れ上がっている。だというのに落ち着けないでいる。 玄関を出て鍵を閉めた。表札には『神無月』とかかれている。 約一ヶ月ぶりに私は学校へと行こうとしていたのだ。 一ヶ月も歩んでいない通学路を通るのは何処かぎこちない感じがした。 それが懐かしいようにも見えれば、全く初めて通るかのような感覚もする。 私は今学校へと向かっている。学校に行けばアイツが居るのだ。 だから私は何があっても学校へ行かなければならない。 自分の為、そしてアイツの為にも。此処で私が腐ってるわけにはいかないのだ。 「今のアイツは腐ってやがる。」 だから誰かが教えてあげなければならない。 だから誰かが導いてやらなければならない。 だから誰かが支えてあげなければならない。 それが出来るのは多分先生でもなければ橘でもない。 家族でもなければ恋人でもない。 きっと。 きっと私だけだと思うから。 其処に根拠はない。 こんな過剰な考えだって正しいとは思わない。 だけど今はそう考える事でしか私は動く事が出来ないでいた。 お前が救われれば私も救われる。 お前も正しい道へ進め、私も正しい道へと進める。 だから私が変えてみせるのだ。 以前のように、さえない男に戻してやるんだ。 何処か歯止めの利かない思考をぐるぐると混じらせている間に私は学校の門の前に辿り着いた。 ソレはこの一ヶ月間、何もなかったかのように見せるように聳えたっていた。 時は流れ人は変わっていく。だけどソレだけは変わらないモノのようにして。 私はそんな風景をただ懐かしむようにしてぼんやりと眺めていた。 また以前のような生活にいきなり戻れるとは思っていない。 変わり果てたアイツを見てしまったから。そんな事がなければ私はきっと、 きっとあの状況から抜け出す事は出来なかったと思う。 だから今のアイツは間違ってるけど、自分を動かしてくれた事として、少しだけ感謝しなければならない。 学校、意味がないと私は言った。 学校、他にする事がないからきていると私は言った。 今は、違うと思う。 勉強には興味は持たないけど、私と私自身の壊れた心を繋いでくれるのが、 きっと学校という場所になってしまったのだと思う。 だからこそ行かなければならないのだと思う。 例え、其れが自分にとって、意味のないものだと感じてしまったとしても・・・。 |