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不安定







こんな刺激を続けて何日経っただろうか。
其れでも俺はこの刺激に飽きてはいないし、
欲を言えばもっと違ったモノが欲しいとさえも思えてしまうだろう。
だが其れは俺の隣に居る橘という男が簡単に用意してくれている。
言うなれば、料理を頼んで作って持ってきてくれるシェフのようなイメージなのだろう。
こいつらと過ごしているうちに俺は、何かしらの欲求を受け付けてくれる橘を見続け、
虎視眈々としながらもタイミングを図って狙ってみる事が増えたようにも思えてしまう。
利用しているといえばそうかもしれない。だが、現状俺よりも色んな事に詳しい橘を置いては、
こいつに頼ってしまう他はないのだ。だからこそ、俺はこいつに頼みごとをすれば、
其れを知り、学び、今後の糧として生きていくのだと、自分に言い聞かせていた。
其処に間違いがあるとは思わないし、寧ろ此れが楽しいのだから仕方ないのだ。

俺の身なりは著しいまでに変わってしまっている。
髪も染めていればピアスも開けているし、煙草だって吸っている。
今でこそむせなくはなったが、やはり肺に入れて噴出す、という動作にはまだ初々しさがあるだろう。
其れは以前、橘と其の仲間が俺にそういったから。だからまだこの動作は完璧ではないのだ。
まぁそれも、段々と慣れてくる。こいつらも元々はそうだったように。
だから俺もいずれはこいつらのように、うまく煙草を吸えるようになるのだと思っている。
煙草のタールを上げたのはつい昨日の話だった。
白いパッケージに青い模様が刻まれ、其処には「MILD SEVEN ONE」と書かれた文字。
今は青いパッケージに青い模様が刻まれた「MILD SEVEN LIGHTS」である。
よく俺は煙草に疑問を持っていた事があった。だって、どんなに絵柄があったとしても、
吸ってはいての行動を繰り返した所で出てくるモノは有害であり、形も同じなのだから、
出てくるモノは何一つ違わない同じモノなのだと思っていた。だが其れは喫煙者にしか分からないのだ。
吸ってる感じのしないタールが薄いものや、今ではニコチン摂取量0%という喫煙者には有難いモノもある。
後味が異様なまでに口の中にこびりつくものもあるし、そうでないものだって勿論存在している。
故に、俺はMILD SEVENという最もポピュラーなものから入ることにした。此れだけの知識も、
俺自身が経験したことといえば本当に少ない、全て橘の受け売りだ。

くだらないと思うし、世間から見れば「何をやってるんだろうか」と思えるような事ばかりだろう。
だが、そういった「くだらない」と思える行動にすら、何らかの意味を得て存在している。
其れを知るのはもっともっと先になってからの話なのだが。

そういえば警察に呼び出されるなんていうちょっとした事件があった。
呼び出しを食らってその場へ足を運んでも、俺等に出来た事といえば、
警察と呼ばれるお堅い人等に事実を突きつけてやるだけの事でしかなかったのだが、
警察といえども、両者の言い分が無ければ、やはり仕事は成立し得ない。人間とはかくしてそういうものだ。
世間では色んな職業が存在しているが、其の存在する職業ですら、其の職業を必要とするものがなければ、
やはり其れは必要のないものとしてこの世に存在してしまう。だから今数ある職業が存在しているのは、
少なからず其の職業を必要としているからなのである。必要のない職業なんざ存在している意味があるとはいえないし。
勿論、昔は必要だったが、今では必要のない職業何かも存在している。若しくは形を変えて違った職業になっているとか。
江戸時代では其れはたくさんの職業が存在していた。両手に抱えられた大きな桶の中に入れられたただの水道水を、
一杯一〇〇円で売るような職業だっていうのも実際にはあった。だが今でこそ水道水なんて、何処の家庭にもあるし、
蛇口をひねれば誰ですら飲めてしまうものだ。故にそんな職業があったとしても、直ぐになくなってしまうだろう。

警察という仕事には、犯罪が無ければ意味がない。犯罪がない国に警察等必要はない。
勿論、犯罪というものが無ければ必要なくなってくる職業というのはたくさん出て来る。
だから本当に意味があるのだろうか、と思えるような職業が存在していたとしても、少なからず、
其れを必要としている人間がいて、其れを必要とする人間の為にと働く人間だって居るわけだ。
一般人も警察も結局は、持ちつ持たれつの関係を維持しているだけに過ぎない。
今回の事では呼び出されただけの鬱陶しいものだったが、ひょんな事から、
警察に頼まないといけないという事だって出てくるかもしれないのだから、世の中とは不思議なものである。
自分自身等を正義だと崇める職業である警察。まあ人の偏見でしかないのだが。
一応この国では絶対的な権力を持ちえている数少ない職業の一つでもあるのだろう。
どんな悪党ですら警察の前ではびびり腰になるわけだし、警察がいればまず安心だと思う人も多い。
其の一方では、警察に対する悪戯電話等が相次ぎ、本当に事件が起こったところで、
悪戯だと見解され、警察が全く動かずにどうしようもなくなってしまうケースもあるのは確かだ。
今の警察とは、信頼出来る部分というのは其の持ちえた権力でしかなく、
警察単体での能力は余り認められていないようにも感じられるのは気のせいではないだろう。

くだらない事を考えていれば、何時の間にか空をぼう、と見上げている事に気がついてしまう。
空というのは無表情だ。だというのに、時折変わる風景には表情を感じてしまう事もある。
空は此れといった事をしてはいない。だというのに、誰しもに忌み嫌われるわけでもないし、
寧ろ好意すら抱いてしまう程でもある。其れが空という存在の素晴らしい所なのだろう。
空は無責任だが、責任感が強い。矛盾しているが空とはそういった存在なのだ。
自分の課せられた仕事は寸秒狂わせる事なく行っているのだが、其れ以上其れ以下の仕事はしない。
空は世界に色を届けるという仕事をしている。だが空がどういった原理で存在しているかは分からない。
でも其れは分からなくていいものだ。科学的に解明されようと、空から見ればちっぽけな俺が解った所で、
どうという事はない。空という見えてはいるが決してつかめない存在の事など、知った所で無意味だから。

「おい、直樹、どうした? そんな空ばっか見つめて、ガラにもなく詩人気取りか? ははは。」

そういって茶を濁してきたのはかっかっかと乾いた笑いをしながらこっちを見ている橘その人である。
別段詩人という人間でもなく、感情も豊かな方ではないので言いえて其れは妙な話だ。

「そんな事はないぞ。何時ものクセでくだらん事を考えていたら勝手に脳が空を欲していただけの話だ。」

そんな根拠もないことを俺は橘に返す。此れ以外に考え付く言葉もなければ、
此れ以上的を射ている言葉なんて存在しないと思ったからだ。

「ばっか、そういうのを詩人っていうんじゃねえのか? ま、其れより、今日はこんだけ仲間も集まってんだし、
どっか出かけるとしねーか? といってもまだ決まってねえから、行き先を決める事からしなくちゃならないけどな。」

そういって橘はちょいと手招きをしてから、本題に入ろうとしていた。





大きな正門がある。此処は一ヶ月ぶり程に見た『学校』という施設の目の前。
違和感が若干あったものの、其の足は簡単に正門をくぐる事を了承している。
そのまま私は自分が居たあの場所へと、足を進めていく事にした。
ふと一ヶ月ぶりに見る階段は、とても懐かしいように思える。
入学当時、避難訓練でもあれば、此れだけ大きな階段なのだから、
皆が皆パニックに陥ってもこの階段さえ駆け下りる事が出来れば、助かる事が出来るだろう、とか。
そんなくだらない事を一ヶ月ぶりに見た階段を見て思い返してくすりと笑ってしまう。

身なりは何一つ変わってはいない。アイツのように変わったことといえば、其れはきっと、
自分自身でしか解らないこの不安定な心以外に他はないだろう。
一歩、また一歩と確実に登っていく階段は、何の変化もない。人の声が絶え間なく聞こえるけれど、
そんな言葉ですらただの雑音なのだと、思ってしまえるくらいに私は一直線だった。
学校に行けば、教室に入れば、また何時もの風景があって、だけど変わったアイツが居て、
だから私は其れを正す為に此処へきて、第一声におはようと声をかけて、
後はアイツから詳しい事を聞いて、其の元凶でもありそうな橘をこらしめるだけで、
また前のような日常を、私がきっと求めていたであろうあの日常を取り戻す事が出来るはずだ。
其処には何の戸惑いもない。ないというのに心は不安定なまま…。

古ぼけた大きな扉を目の前に、私はふっと深呼吸を一度だけすると、教室へと通じる扉を開ける。

あけた先にはやはり何時もと変わらない風景が漂っていた。二箇所だけを除いては。
教室を見渡せば、誰もが唖然としたような顔でこちらを見ているのが解る。
其れは一ヶ月という間、無断欠席をしていた人に対する驚きのまなざしのほかならない。
勿論驚いていたのはこのクラスの人間だけではなく、其のクラスの人間を束ねる指揮官とも言える、
先生も同じである。幾ら職業が違えど、中身は同じ人間。同じ反応をするときは誰かれ問わずするものだ。
そんな光景を見て少し笑みがこぼれたことを私は知らない。だから真っ直ぐアイツが居た席の隣、
自分の席へと歩いていくのだ。其処にアイツの姿がないとわかっていても歩みを止めてはいけないのだから。
其れからは何時もと同じ日常が流れていくだけとなった。
授業が進み、相変わらずノートや教科書には手をつけない私。
学校に来たのは、あの前進黒ずくめの男にしか興味がなかったのだから。そんなアイツは席には居ない。
ふと横を振り向けば、あの時のアイツの顔が浮かんでくるだけで、
やけに腹正しい。折角私が来てやってるというのに、
欠席をするとはいったいどういう了見なのか。考えただけでも腹正しい。
勿論倉田岬も学校には着ている。コイツはちゃんと毎日学校へきていたようだ。考えれば当然だろう。
おかしいのは空白になっている私と、何時の間にか変わり果てた弓塚直樹と、ソイツを引き込んだであろう元凶の橘健次郎。
クラスからすれば其れは空のように些細な事かもしれない。今の私にとっては其れが大きな問題であろうと、
其れを気にかけてくれる人間などは居もしないのは明白。だからどうという事はないのだけれど、
だが考えてみれば、この状況だと本当に学校へくる意味はなかったのではないだろうか…。
目的である弓塚が居ないというのであれば、私は其れを探しにいくという行動に出た方が、何倍も意味があるのではないか。
明日になればひょっこり現れるかもしれない。だからこうしてくだらない時間をすごして待つのも穏やかでいいだろう。
だが早ければ早いほど、落ち着きが取り戻せるという事だし、もしかしたらもう予期せぬ事に巻き込まれて、
ダメになっているかもしれない。そういった不安はどんな人間にでも存在するものだし、経験した事のない事なら尚更であるし、
ただ空想概念だけで作り上げた確証のないもの程、人を惑わせるものはない。其れが空想なのだから。
ただ一人、遊んだ事のある倉田に少し情報を聞くことにしよう。
其の返答次第では、私は今すぐここから抜け出さなきゃならない。
そんな細かい情報だけで、私のとるべき行動が決まるというのならば、其れは安いものだろう。

「なあ、倉田。」

私は机の前に座る女の子へと声をかける。

「久しぶりだね、神無月さん。一体どうしちゃったの? 弓塚くんも橘くんも此処ずっと学校にきてないし。」

質問をする前に求めていた答えとやらは倉田の第一声でわかってしまう。
となれば、私が取る行動はやはりここから抜け出して、アイツらを探す事の他ないのだろう。
ずっと学校へ着てないというのだから、一日二日此処にいたってきっと何も変わらないのだから。

「解った。聞きたい事の答えは出た。倉田、私はまた暫く学校には来れそうもない。」

其れだけを話して私は学校を後にする。何かしら倉田の声が聞こえた気もしたが、
今は其れを聞いてやれるだけの時間はない。聞く耳も持たない。一刻も早くアイツを見つけないといけないのだから。
私の為にも、アイツのためにも。だからごめんとだけ心の中で倉田に謝っておく事にした。

しかし、アイツがいきそうなアテというのは此れといって見つかるものではない。
こんな事ならもっと遊んでおけば良かったと一瞬思うのだが、其れも何だか億劫な話で、
遊ばなくてもまぁ良かったと直ぐに思えてしまう。とか言うと探すのが苦労するのだが。
一先ずは私が最初に誘ったあの廃墟へと足を運んで見る事にする。

空は晴れ上がっている。私のこの落ち着かない心とは裏腹に。
何とも其れを受け入れてくれそうにない。だからそんなものはこっちから願い下げなのだ。
誰かに受け入れて欲しいわけじゃない。あいつにこの不安定な心をぶちまけてやればいいのだ。
私がこうなってしまったのも全てアイツのせいなんだ。弓塚 直樹という人間のせいなんだ。
だからこんな不満をぶつけるくらいなら、罪にはならないだろう。其れくらいはいいと思えるんだから。
いくアテなんて殆どないけれど、だけど、其れでも自分の知っている所は全て回ろう。
其処で見つかれば其れは苦労するけれど、無駄ではないのだから。

瓦礫と瓦礫がこすれあって何とも不可解な音を出している。此処は私が以前、性的暴行を受けたあの場所に他ならない。
今はそんな事を気にしている場合ではないのだが、時折そんな覚えもしない光景を脳裏に描いては嘔吐しそうになる。
そりゃそうだろう。あんな光景見れたものではないのだし、何せこの私が体を持ってして経験してしまった一つの傷痕なのだ。
此処まで記憶が欠落していながらもそういった風景を思い描く事が出来るというのは、
自分の妄想が優れているのか、あるいはそんな欠落をモノともしないくらいにダメージが大きかったのか、
どちらにせよ、自分が受けてしまった傷痕というのは変わらないわけで、理不尽さを感じてしまう。
考える事は唯一つ。寂れてしまったアイツを探す事。だから今は余計な概念は振り払わなければならない。
頭をこれ見よがしにぶんぶんと左右へと振り回し、余計な概念を取っ払う。其れだけ、たった其れだけで、
私の足はずんずんと前へと進ませてくれる。こういうとき、感情ってつくづく無駄なものだと感じさせられてしまう。

かちゃりと硝子と触れ合う音を聞く。素足で歩けばまず無傷では帰れない。
太陽が昇っている間は、目を開けば視力が一を切っていようが周りを見渡せるくらいに視界はいい。
だが、其れも一度闇に染まってしまえば、幾ら視力に自信がある人といえど、安易に見渡すのは不可能だ。
其れくらいの歪さを持ったこの、隔離された土地というのはあの頃も今も変わらないまま聳え立っている。
何故早く取り壊さないのか、何故このまま此処に存在しているのか。其処に意味はあるのか。
其れは解らないし私の知った事ではないのだが、どうも私はここには縁があるらしい。
何かしら座って円陣を組んでいるバカ面を下げた男どもの姿を見つける事が出来たのだから。
確証はない。此れといった根拠はない、だがアレに居るのはきっと弓塚なのだから。





「で、結局何処へ行こうっていうんだよ、橘。」

言葉を発したのは俺こと弓塚 直樹だ。もうこうしている時間が勿体無く感じ、
とうとう痺れを切らしたのだ。というのも流石にずっと同じ体勢でいるのも疲れたし、
痺れを切らしたのは何も精神だけでなく、足も、と言ったところだろうか。
すると橘はふふん、と自慢げに胸を張り、人差し指を左右にリズム良く振ると、

「ちっちっちっ。まぁそうあわてるなよ、弓塚。まあ今日行くのは他でもない、
俺等がずいぶんと前に見つけた秘密基地みたいなところがあるんだよ。
まあ、秘密基地とか言うとガキくさくてしょうがないが、そうだな…。
言うなれば俺等不良が最も好むベストプレイス、って奴だな。
其処は隔離された場所で俺等が騒ごうが何しようが誰もこねぇくらいいい場所さ。
警察だって通らないし、人すら通らない。もう何でもやりたい放題ってわけだ。
ただまぁ、そういう場所だから立地条件も悪いし、コンビニとかゲーセンとかないのが、
ちょっと痛いけどな。ま、遊ぶだけなら遊びつくせないくらいの場所だから色々出来るぜ。
こういう面前の前では出来ないような事が色々と、な。」

そう長々と説明する橘の言葉には何処か心当たりがあるのだが、流石にあそこではないだろう。
このあたりで知られている隔離された場所、其れといえば以前、霊が連れて行ってくれたあの廃墟。
あそこに他ならないのだろうから。一度行った事のある俺くらいなら簡単に想像はつくだろう。
だがまぁ、とはいえ確証はないのだから、このまま黙って相槌だけを打って納得する事にする。

「よし、其れじゃあそうと決まればコンビニで買出ししてから行くとするか!
近くにゃ何もねーから酒と煙草は必須だぜ?」

そういうと橘は立ち上がり、ぽんぽんと服についた埃やゴミを振り払うとコンビニへと足を進めていく。
俺等は其れについていく事しかしなかった。勿論この先アイツに会うとは思いもよらずに。

がさがさとビニールの袋をあさる音が聞こえる。たとえるなら其れは猫がゴミ箱をあさっているような音だ。
橘と其の仲間が買ってきたコンビニの中身を調べている。買ったモノと言えばなんてことはないものばかり。
予備の煙草がいくつかと、レモンとマスカット等のさっぱりフルーツのアルコール、種類は様々で、
350mlのものもあれば、大きめの500mlのものもある。後は、其れ用のおつまみのするめ等。思うのだが、
こいつ等は毎日こんなことばかりやって何処から其れだけの収入源を得ているというのか。
まあ、以前からバイトをしている奴もいるというし、大方其の類なのだろう。後はあるかどうかは解らないが、
お小遣い、というモノもあるのだろう。最近の子供というのはお小遣いを沢山貰う傾向がある。
その理由としてはやはり現代におけるお金の価値が安くなっているというのもあれば、
物価が高くなっているということもある。男の子で欲しがるものといえば、ゲーム機だったりするが、
このゲーム機だって今では相当な値段をするようになっている。段々と性能が良くなっていくが、
其れに比例して勿論値段も高くなってきている。ただまぁ、其れ故に、子供というのは、
お金に対する執着心がなくなっている。執着心がない、というだけなら聞こえはいいのだ。
だがそうではなく、たった一〇〇円を稼ぐというだけがどれだけ大変かという事を知らないからこそなのだ。
自分自身がお金を稼ぐ立場になれば、無駄使いが出来なくなるし、お金を使う事にためらいが生まれる。
其れは良い事でもあるし、お金を稼ぐというのがいかに大変かという事を自分で働きながら自覚する事が出来る。
故に、どんなバイトであろうと、どれだけ時給が安かろうと、働くという事は自分にとっては物凄く有益な事なのだ。
お小遣いだけで収入を得ている場合、子供の認識としては、『定期的に一定額が手に入る』という事だ。
だが、お小遣いを貰えず、自分で働くしかなくなった場合、其れは苦労して稼ぐ事になるのだが、
其の分、得られるモノというのは沢山ある。ましてや世間というものを少しでも垣間見える事が出来るのも大きなポイントだ。

・・・というのは以前確か親父から聞いた話だったような気もする。実際俺は働いた事がないので良く解らない。
こんなことをしながらでも母親はお小遣いを定期的にくれているのだから、事かくことはない。現状では満足だ。
子供のお小遣いというのは学年があがる事に額にあがっていく。小学生では二〇〇〇円だとしても、
中学生になれば三〇〇〇円から四〇〇〇円だったり、はては五〇〇〇円だったりもするだろう。
多いところでは一〇〇〇〇円だという家庭もあるのだとか。そういった家は共働きだったりで収入源の多い所だ。

其れはそうと依然にも袋の中身を調べては、確認をし合っている風景が目に映るのだが、
此れからあの場所で宴会でも開こうかというのだろうか? 想像するだけで其のジオラマの不釣合いさに首をかしげてしまう。
其れはそうともしあそこへ行くのであれば、周囲に何も無いのは百も承知だ。だから俺も適当なモノを買っていた。
煙草の予備と、お酒はまだ飲まないので炭酸飲料と普通の飲料、其れと軽くおなかを膨らます為のパン食くらい。
準備が整った所で俺等は其の廃墟へと足を進める事にする。

どれくらい歩いただろうか。空は依然にしても晴れ上がっていて、とても気持ちがいい。
風もほんのり頬をさす程度で、寒いとはお世辞にもいえない。こんな清清しい日はあの時以来だろうか。
以前、倉田と霊と喫茶店へいったときの天候を思い出すが、其れも今では過去の産物。
今は今でこうしている方が何倍にも楽しいと思えてしまうあたり、古い記憶というのは、
新しい記憶に段々と、塗装のはげた壁を塗りなおすが如く、塗りつぶされてしまう。
こんな都合の良い機能が備わっていながらも、悪い思い出は簡単には塗りつぶせないでいるのが人間だ。
其れはどういう事かというと、人間とは辛い思い出というのは、色濃く心に刻まされてしまう。
で、そういう思い出というのはなかなかに塗装が剥がれてくれないのだ。故に塗りつぶす必要性が全く持って無い。
そういった理由で他の記憶は、別に塗り替えが必要な別の記憶へと標準を定めてしまい、其れを塗りつぶしていく。
だからこそ、人というのは辛い思い出、簡単に言えばトラウマ等を延々と引きずったまま生活をしてしまうのだ。
其れが良い事であるのか、悪い事であるのかは、その人の此れからの過ごし方一つで変わってしまう。
たとえば、学校で苛められるとする。苛められるまでは苛められる側の気持ちというのは到底理解出来ない。
苛められる事がないのが一番良い事だが、苛められる事によってそういった状況に置かれた人達の気持ちを、
少なからず理解出来る部分が出来るし、テレビでそういった特集をしていても共感出来る部分が出来てくる。
だが、こういったトラウマになるような事件だとしても、其れを他の奴にも味合わせてやるといった気持ちで、
別の人をいじめていたのでは其れは悪い方向へと導いてしまっているようになるわけだ。
だが、そういった気持ちを知っているのだから、こういう事はしてはいけないのだ、とわかっていれば、
もっと違った視点で物事を見つめなおす事が出来る。此れが良い方向なのだと思う。

誰かが言っていた。苛める側が一〇〇%悪いのだと。
誰かが言っていた。苛められる側に非はないのだと。

果たしてそうだろうか。苛めるにしても何かしらの理由は存在するだろうし、
苛めるにしても理由無しで苛めるケースもあるが、理由が存在して苛めるというケースもあるのではないだろうか。
何となく気に食わない、というので苛めるのであれば、其れはただの自己欲求である。エゴイストだ。
だが、仮にも理由があったとしよう。例えば、お金を借りたとして、其れを何時までも返さないままで、
結局いじめの対象になってしまった。この場合はどう考えるのが良いだろうか。
苛められる側にも此れで苛められる原因というものを作っているのだから、
その人にも非があると考えられるという結論にはならないだろうか?

誰かが言っていた。苛める側に理由があったとしても、
誰かが言っていた。手を出してしまえばどんな理由があれど、正当化は出来ないのだと。

こう考えれば、苛める側が悪いという結論には辿り着けるだろう。
どういう理由であれ、こちら側が手を出してしまえば、其れは其れでこちらがドンドン不利になっていく。
となるとやはり、苛められる側に非を完璧に持たせるというのは「いじめ」という事実が発覚した時、
完全に崩壊してしまうのだと考えるのが妥当なのだろう。其れにいじめといえば、一人ではなく複数なのだし。

「ついたぜ。」

橘の一声で思考回路は停止させられ、皆が足を止めてあたりを見回している。
此処だけが異空間なのだと、そう思わせるように聳え立つ其れらは、全ての光を吸収するかのようにも見える。
花の一輪すら咲いていないこの荒地、悪く言えば廃墟だ。そんな場所が目の前には広がっている。
足元を見れば瓦礫や硝子が無造作にちりばめられており、しいていえば此れも芸術の域ともいえるのだろう。
此処は他でもなく、霊がつれてきたあの場所に他ならない。以前、性的暴行を受けたという「曰くつき」の場所だ。

「やっぱ此処は変わってないな。あの時のままだ。」

仲間の一人がそう話す。あの時とはどの時なのだろうか。こいつ等が此処を見つけた時の事なのだろう。
深く追求するのも面倒だし、人のプライベートに首を突っ込むのも何だか気が引けるので黙っておく。
そんなわけでさっさと橘は奥へと進み、自分等が占領している穴場とやらに案内してくれるのだった。


がらがらとモノが崩れるような音を出している其れ等は、俺等の足元にある瓦礫と硝子が交じり合ってこすれる音。
蹴飛ばそうものなら、其れが一体何処へいったのか解らなくなる程に酷い荒れようだった。
こんな荒地を何故今まで放置していたのか。そして今でもなお。其れを改善しようという話は出ていない。
そうして、穴場へと辿り着いたのは直ぐの事。まだ建物の中には入っていないのだが、其の場所がそうらしい。
入り口は目の前であり、其の入り口の前で座り込むと、食料をどんどんと其の場へ出していく。

「ああ、弓塚。此処はな、中はすげえ空気悪いからこうして入り口付近にたまるんだよ。
んでな、ほら、そこに本棚があるだろ? あれは外にあるからまだまだきれいでな。
其処に買って来たものを並べておいておく、っていう事さ。どうだ。いいだろ?」

そういうと橘は入り口の前にあった古ぼけた本棚を指さして話す。
其の本棚は大きさ的には一人の部屋に入るくらいの平凡な大きさだが、塗装は剥がれ、
幾らきれいだといえども、見栄えはそう良いと言えるモノではなかった。其れでもこいつ等が使うわけだから、
本棚の中にはゴミというゴミは殆ど見られない。この本棚だけが更に別世界を演じており、
此処に存在するモノというモノの中で、唯一機能を果たしていると言えるのだろう。

そうしていると何かの足音が聞こえてくる。皆はぎょっとして其の方向へと視線を向ける。
こんな廃墟に誰が来るのかと思って目を見据えて見れば、可憐にも仕上げられた其の美しい紫がかる髪と、
赤いロングコートを着用している、この場にはとても場違いといえるだけの容姿を携えた人物。
他でもなく、神無月 霊の姿に他はなかった。突然の訪問で一同は唖然としてしまうが、
そんな間抜けな面構えも、神無月の一声で崩れ落ちてしまう事になる。

「弓塚。こんな莫迦共とつるんで、おまえは一体何をしてるんだ?
学校はどうした、あれだけまじめだったおまえは一体何処にいったんだ?」

其の言葉には圧力がなかった。何処となく、小刻みに震えているようにも見えた。
怒りで前が見えず、ただ怒りに任せて体を震わせているのか、其れとも別のナニカか。
だから俺は答える事が出来ずにただ霊の言葉を痛い程に体中に響かせるだけだった。

「答えろ!」

霊が言う其の言葉には今度こそ、ためらいはなく、其れでいて真っ直ぐに俺を見据えている。
そんな言葉に一同は言葉を返す事も、動く事さえも出来ないでいた。
飲もうとしていた酒の缶は仲間の手から滑り落ち、だらしなくも其の使命を果たすことなく、
大地へと中身をぶちまけていた。ふう、と一呼吸を置いて立ち上がる。
そして俺も同じく霊を真っ直ぐと見据えてから、言う。

「何もしていない。俺は俺でこいつ等と遊ぶのが面白いと思ったから遊んでるんだ。
其れに霊も霊じゃないか、ずっと心配してたのに学校には来ないし。
家にいったって俺等を追い返していたのに、今更君にそんな事を言われる筋合いってないんじゃないかな。
霊がどういう理由で此処に来て俺を見つけたかは知らないけど、やっぱ理不尽だよ、其れ。」

肩をすくめながらそういった。
一ヶ月という間学校へとこないまま、自宅へと篭り、様子を見に行けば見に行ったで、
軽く文句を言われて俺達と立ち会ってくれなかった今のコイツに何を言われなければならないというのか。
正直俺はムっとしていた。自分のことだけならままならず、こいつ等のことを何も理解していない奴に、
莫迦共だと友達を莫迦にされた事にむしょうに腹が立ったのだ。だからこうして言い返してやるのも、
きっと其れはそれで、霊には許されない事だとしても、きっと俺の中では許される些細な抵抗なのだと思った。





身なりだけじゃなく中身まで変わってしまったコイツが今目の前に居る。
少しだけの希望は簡単にも脆く、儚く自分の中で音を立てて崩れてしまっていた。
私がちゃんと毎日学校へ行ってコイツを見張っていられたのなら、きっとこんなことにはならなかった。
だから此れはきっと私の責任なんだ。私がコイツをだめにしてしまったんだろう。
自然と悔しさが溢れだしてきて、私は知らずのうちに歯をぎりぎりと鳴らしてしまっていた。
其れがあいつ等に聞こえたかどうかはわからない。自分自身、認めたくないものだったから。
でも確かに奴の言い分にも一理はあるのだろう。一ヶ月の間彼等を遠ざけておきながらも、
こうしてひょっこり現れては愚痴をたらすだけの奴なんかの言葉に誰が素直に従うのだろうか。
其れでもやはり私はここで見つけたのだし、そのために此処へ来た。だからとめなくちゃいけないんだ。

…でも、こういう時、何て言えば解って貰えるのかなんて、欠落だらけの私には到底解らない。

だから、もう出てきた言葉をぶっきらぼうに並べて浴びせる他に解って貰える道はないんだ。
アイツのように回りくどい言い方を出来るわけでもなければ其処まで人付き合いが達者なわけじゃない。
だからきっと私がこうしてぶっきらぼうに言葉を並べるだけであっても、其れが私に出来る精一杯なんだから。

「…いいから、そいつ等とつるんでないで、明日からちゃんと学校へ来い。
髪も染め直して、ピアスもはずして、其の煙草とかもやめて前のおまえに戻れよ。」

精一杯だった。此れでも感情とやらをある程度コントロール出来た方だ。
此れでダメなら私はどうすればいいのかわからなくなってしまう。でもアイツの事だから、
きっと、きっと解ってくれると思っていた。思っていたのに…。

弓塚は、呆れたような顔をして目を瞑り、大きなため息を吐いて一呼吸をおく。

「いいかい? 霊。さっきもいったように、どうしてそんな事を言われなきゃならないんだ?
俺は俺でこうして目的を見つけたんだから、其れは其れでいいことじゃないか?
別に誰かに迷惑かけてるわけでもないし。ほら、こんな場所で叫ぼうがわめこうが、
誰にも迷惑かからないだろう? なのに、そうして注意されるのなんて心外だね。
何も人様の迷惑になるように過ごしてるわけでもないんだよ、俺等は。
俺等は俺等で人の迷惑にならない程度の娯楽を見つけて其れを純粋に楽しんでいるだけ。
そうじゃないのか? なあ? 橘?」

散々理屈を並べてから同意を求めて目線を橘へと向けて、そういった。
橘はそうそう、と相槌を打ってまた私のほうへと視線を向けている。
私は失望していた。同時に哀しさが溢れて崩れてしまいそうだった。
確かに最初であった時はイライラしていたかもしれない。でも、こうして自分の知らない所で、
自分の知っている人間が著しくも悪い方向へと変わってしまうのを見ていると、
やっぱり其れは私でも悲しいのだと素直に思えてしまう。だから厭なんだ。こんな『今』は。
何てことない平凡な日々を送らせてくれたあの頃の『今』が私は好きだったんだ。

「違う。其れは違うぞ弓塚。そうやっておまえらが好き勝手やって迷惑しない奴が居ると思ってるのか?
おまえの担任だってそうだし、倉田だって心配してる。おまえの親も心配してるじゃないか。
此れでどうやっておまえが人様に迷惑をかけていないなんていえるのか。説明してみろ。」

だから其れを求める為に、私は言うのだ。何を言われても言い続けるのだ。
どんな理屈だっていい、アイツを改正させるまでは此処でくじけちゃダメなんだ。
私が私で在(い)れる為にも、此処でのこのこと下がってしまえば終わってしまうから。

アイツも其れは同じ。だからこうして私に言い返してくる。

「どうせそんなのうわべだけのことじゃないか。今頃家族だって後悔してるさ。
どうしてこんな奴産んだんだろうって。こんなことなら産まない方が良かったんだろうってな。
家族の居ないおまえにそんな事がわかってたまるかよ。担任なんていうのはな、
どうせクラスで問題が起きると自分の責任になって自分の立場とか、学校の名誉とか、
そういうのが危うくなるから上辺だけの心配をしてるだけに過ぎないんだよ。
あんなマニュアル通りに事を進めている人間の事なんざ知ったこっちゃないよ。
倉田も倉田さ、アイツだって俺がずっとこなければ、其のうち違う記憶で俺を塗り替えて、
忘れていくんだから、心配だっていっても今だけの話だろう?
ってことはあれなんだな? 霊はそいつ等の代弁者ってことで、皆を代表してきたんだ?」

何ともむかつくことをドンドンと述べてくれる弓塚。本当にこの短い間に何が、
コイツをこうさせてしまったのだろう。あれだけ平凡でどってことなかったアイツが…。

「ち、違う! 私は…私はただ…。」

其の先を紡いでくれる言葉が出てきてくれない。どうしてか出てこない。
何を言えばいいのか。どういえば解ってもらえるのか。そう考えていけばいくほどに、
答えはドンドンと迷宮の中へと転がり落ちていってしまう。其れこそ、手を伸ばしてもつかめない程に。

「違う? じゃあなんだっていうんだ? 其処で行き詰るって事はやっぱり図星なんだろ?
なあ、神無月。そんなくだらない事を言いに来ただけってんだったら、とっとと帰ってくれよ。
わざわざ心配してお前の家まで行ったってのにあんな追い返されかたして、ここに居る奴等が、
お前の言う事を素直に聞くとも思えないのはお前が一番理解してるんじゃねえの?」

口を開いたのは弓塚ではなく、橘 健次郎だった。
正直全ての元凶はコイツなのだ。だからコイツになら言いたいことは何だっていえると思う。

「ふん。平凡だった弓塚を此処まで変えたのは全部おまえのせいだろ。
おまえがそうすることで人ひとりの人生を一八〇度変えてしまっているという事に気づかないなんてな、
おまえは本当に哀れな人間だよ。そんな事ばっかしてると後で痛い目を見るのはおまえだよ。
だから莫迦だって言われるんだ。だから私もおまえを莫迦だって呼ぶんだ、解ったか?」

そういった私の言葉に嘘はない。本音だけ。此れだけいってもまだいい足りない。
でもこういう莫迦には此れくらい言えば済む話だろう、此れでもわからない奴なら、もう実力行使に出るしか。

今にも殴りかかってきそうなくらい形相を変えた橘をとめたのは一本の腕。
其の腕は弓塚のものだった。橘の前に差し出されたソレは見事なまでに踏み切りのような役割をしていた。

「やめとけ、橘。いくらおまえでも殴りかかったところでアイツには勝てないよ。
それに、女を殴るなんてまね、おまえだってしたくはないだろ?」

弓塚の言う事に少し違和感があったが、ソレもそうだ、と納得したのか表情を戻してまたぺたん、と
その場にだらしなく座り込む橘が見えた。ソレがなければ私はきっとコイツをねじ伏せていただろう。

「で? まだ話を続けるのか? 霊。いい加減やめないか。此れ以上何を言われたって、
俺等は変わらないよ。やっと見つけた俺の生きがいなんだ。其れを邪魔するっていうんだったら、
幾ら霊でも俺は容赦しないからな。其れだけは覚えておいてくれ。」


もう、何を言っても無駄なの?


「でさ、何だったら霊も一緒に遊ばないか?」


もう、私では元に戻せないの?


「ほら、言ってたろ? 学校には行く意味がないって。其れならこっちで遊んだ方が、
まだ何倍にも意味があると俺は思うんだけどね。此れは遊んだ俺が言うんだから間違いないし。」


もう、間違ったレールに沿って後は崩れていくだけなの?


「おい、霊? 言う事だけ言えば後はだんまりか? よくないぜ。もっと社交的にならないとさ。」


私も貴方もこのまますれ違って行くだけでしかないの?


其れは違う。
違うと思う。
このままじゃダメだって解ってるのは私だけで、
コイツは何も解っちゃいないんだ。
其れを教えてあげられるのは母親でもなくて、
担任でもなくて、倉田 岬でもなくて、
孤独をはじめてしった私だけなんだ。


「…から。」


私が発した言葉は、彼には届かない。


「何だって? 良く聞こえないよ。」


「いいから。」


声を振り絞った。私は泣いていたと思う。頬を伝うだけの涙は暖かい。


「もういいから。」


涙を見せないように顔を下に向けると、どうしても声が前に出てくれずに、
何時もより大きな声を出さなければならなくなってしまう。
其れが今の私には難しくて、億劫で、とても哀しくて、震えてしまう。
こんな時、雨でも降ってくれれば、涙を隠して思いっきりいってやれるというのに。

「何がもういいんだよ、霊。さっきからワケが解らないぞ。」

コイツは何も気づいてはくれない。私のいう事にいちいちレスポンスするのは変わってないけれど。
それでも大事な部分はずっとずっと奥の方にと追いやられて、壊れてしまっている。

「もういいから! おまえのことなんてもう知らない! 勝手にやってればいいよ!
人の気も知らないで! 好き勝手やって死んでしまえ!」

其れだけを言って私は涙をぬぐいながらその場を後にする。
もう見たくない、あんな奴の顔なんて。もう二度と見たくない。此れで全て終わったんだ。
後は私もアイツもただ適当に世の中に流されて、壊れていくだけ…。

あれだけ気持ちがいいと思えた空も今ではとても憎らしくて。
私がこんな思いまでして言い争った結果がこの空には似合わなくて。
ただひたすらに其の使命を果たすだけの空が今は、今はただ憎い。だって、
空はずっと本音を隠さずに生きているけれど、私はたった今、
本音を隠して虚実をこれ見よがしにアイツにたたきつけた。其の事実だけでもう胸は煮えくりかえりそうで腹正しい。
解ってくれとはもう言わない。解って貰えるとももう思ってないから。だからまた、
こういうチャンスがめぐってきたのなら、また私は今のようにダメにしてしまうのだろう。
アイツと出会った事にですら、殺意が沸きそうでどうしようもない。
あれだけ生意気に連ねてきた思考の数々は、呆気なくもアイツの前で叩き潰されて行く。
所詮人間は一人では何も出来ないんだと自覚させられるかのようにして、脆く儚い。
少しだけ芽生えた希望は、トラックにでも踏み潰されるかのようにして、一瞬にして潰される。
淡い希望は持たない方が世の中の為、自分の為でもあるんだろうか?
こんな悔しい思いをするくらいなら、いっその事希望なんて微塵にも持たない方が、
私もアイツも幸せにやっていけるんだろうか。其れを考えれば考える程、世の中は理不尽だ。
希望を背負うという事は其れだけにリスクを伴うものだ、肉体的にも精神的にも同じことが言える。
ただ不器用に其の希望をかなえる為だけに行動を犯していくだけならば、こういった結末を迎えるだけで、
其処に残るものは悔しさや悲しみといった劣等感だけ。本当にそうだったのならば、哀れな話。
駆け出していく私の足元には、無造作に転がった瓦礫と硝子の山。
其の在り方は正に今の私の心のように存在して、其れを踏みつけて走り出す私は、
自分の心の中を此れでもかというくらいに踏み荒らしているだけのただの子供のようだった。
瓦礫と硝子のこすれあう音は、今にも崩れていく私の心の未来(さき)を暗示しているように。





去り際、泣いていたように見えたが、其れはきっと気のせいだ。
あの気丈な霊があんな言葉を吐くのも不自然に思えたが、其れは一時に気の迷いだ。
きっとこの場所が彼女にとって曰くつきの場所であるが故に起こした厄介ごとなんだ。
だからそう思う事にして俺らはまた何時ものように橘たちと適当に遊んでから帰る事にした。





人が存在する理由とは一体なんなのか。
きっと其処には本人にすら解らない「ナニカ」がある。
だから人は其れに従う事も、背くことも出来ずに生きている。
現に此処まで考える人が一体どれだけいるのか。
考えたところで答えが出るはずもない、迷宮思考。
だからきっと私がここで何を考えたって、意味がないんだ。

今は…、アイツを元に戻す事だけを考えて。

夏は私を拒絶しているかのように暑いものだった。
其処に広がる空は、喫茶店へと行ったあの時とは少し違う。
くだらない思考を繰り返していればあっという間に学校へとはついてしまう。
私はぎこちない態度で自分の教室へと入ることにする。

扉の向こうには一面に広がる机、其れは規則正しく並べられ、其処には一人一人の生徒が座っている。
此処は教室と呼ばれる場所であり、私は今其の教室へと、入るための扉を開け、辺りを一望しているだけに過ぎない。
だというのにこの感覚がとても不思議な事にも思え、逆に懐かしくも思えてしまう。其れもそうだろう。
実に一ヶ月という期間、私はここへ来ていなかったのだから。また暫く思考をめぐらせてしまう。
此処へ来た当時、弓塚に出会った事。くだらない話で盛り上がっていた事。勉強をする気があるのかないのか、
解らないそぶりを見せながらも毎日学校へきていた橘。其処で知り合った通称ハーブティーマニアの倉田。
きっとこの時一番驚いたのは先生なのだろうか。教卓へと目をやると先生にしては珍しい顔、唖然としてこちらを見ている。
無理もないのだろう。一ヶ月という間音信不通にしておきながら、
今日突然登校してきたのだから。クラスメイトは相変わらずの様子だったが。
まあ、今日で無断欠席を一ヶ月続けてから二日目の登校という事になっている。
ただし、前日はきて直ぐに教室を出て行ったのだから、出席という事にはなっていないのだろう。
だから今日此処で授業を受け続けていけば、晴れて私は一ヶ月という呪縛から解かれ、「出席」扱いとなる。
そういう意味では今日が本当の「一ヶ月ぶりの出席」という事になる。だからこそ、
担任は驚いていたが、クラスメイトはいつもどおりなのだ、昨日は少し違っていたのだが。

私は先生には何も言わず自分の席へと座ることにする。此処には勉強をしにきたわけではない。弓塚に会う為に来たのだ。
其れは彼の為でもあり、私の為でもある、きっと、とても、意味のあるものなのだと思う。今の私にとっては、其れだけが、
生きる目的なんだと思えるのだから。其れだけで重大な事なんだ。人は自分の生きる目的を勝手に作り上げてしまう。
だが人は其の目的無しには生きてはいけないのも恐らく事実なのだろう。だからこそ人はある程度の目的を掲げ、其れを元に生活を送る。
其れが家庭を持つ事であれば、自らのやりたい事の為であったり。今の私にも同じ事が言えるようになったのだろう。
今までとは違うナニカが私を変えていくようにして。其れは纏わりついている。
きっかけとは突然にやってくる。其れが何時どこでどのようにして現れるかはわからない。
そして其のきっかけを掴み取るのも此れまた自分自身次第であるのも確かだ。
私はきっと其のきっかけを掴み取ることが出来たのだろう。そう思う事にする。
人とはそんな些細な気持ちだけで一歩でも二歩でも前へと進めるのだ。其れはきっと間違いない。『確かなモノ』として存在しているのだろう。
だが、問題の弓塚は私の隣の席には居なかった。あの橘とかいう莫迦に唆されて学校をサボっているのだろう。
まぁそんな事だという予想はしていたのだが、いざ当たってしまうと寂しいものがある。人の思考の一部に「予想」というものがある。
此れは予め組まれた自分の中の想像をかき集め、其の先を考えるというものだ。例えば図形等でもそうだろう。こういう形があり、
此れを崩すとどうなるか。だが其れは一度でもそういう過程を行なっているからこそ、先を考えることが出来るのであって、
経験がないことには其れは全くの未知としてとらえられてしまう。此処でいう「予想」とは、
何時だったか、私の家へと来た弓塚と橘の事があってからだ。
黒で染めていたアイツの容姿が著しいまでに変化し、一人称すら変わっていた。
一般的に言う橘や、今の弓塚の容姿は「不良」と言われる類なのだ。
不良、とは世間では煙たがれる存在である。喫煙者と同じようにして。
不良が行なう事は其の文字通り、良心的なものではない事が多いからなのだ。
一般で言われるモラルに反し、次々と人様の迷惑になるような事ばかりを行なう。いわば「非行」と言われる類なのだろう。
そしてこの不良とは、弓塚のように何の考えもなしに日常を送っている人間が陥りやすいのだ。
人は常に新しい刺激を求めている。だが人は其れを自らで経験しようとはしない。
或いは人の誘いであったり、或いはテレビ等で影響を受けていたり、
其れで初めて自分の中で「此れは新しい刺激なんだ」と認知する事が出来る。
そうすると人は其れへと行動を移したがる。一種の好奇心のようなものなのだろうか。
弓塚も恐らく其の類なのであろう。橘に唆されてあんなことになっていたのだから。

今日は暇な一日になりそうだ。
弓塚がこないことには私も此処に来た意味は全くといっていいくらいにないのだから。





俺は家の前に立っている。表札には「弓塚」と書かれている。だから此処は俺の家である事には違いない。だというのに、
橘と遊ぶようになってからは、此処は「家」ではなく、ただの仮眠室と化している。
俺がこの家に戻ってくるのはもう、寝る為か、食事を取る為かのどちらかでしかない。
母は母で一応毎日帰ってくる事はわかっているらしく、ちゃんと俺の分の御飯も作ってくれている。
だから俺は母の居ない時間帯を狙って帰ってきては御飯を温めてから食べ、
其のまま睡眠を取り、おきたらまた橘と遊ぶ、というサイクルを繰り返している。
一重に初めからそうだったわけではなく、きっかけは恐らく霊の家に行ってからなのだろう。
一度学校をサボってしまうと、本当にどうでもよくなってしまう。其れよりも、今は橘と遊ぶ事に意味を感じてしまうくらいになっている。
俺にとって大事なのは、学校へ何の目的もなく通う事ではなく、目の前に広がる自由という場所へと飛び出すことだ。
きっと其れに間違いはないのだろう。学校、といったって三年もあるのだから。
後で勉強すれば皆と同じところまで追いつけるだろうし。結果として学校で勉強をしなくても、
卒業くらいは出来る。今や高校へ行かずにフリーターとして過ごしている人も多い世の中。
そんな選択欄もあるのだから。中学時代を真面目にいかなくたって、生きていく為の、
レールとは沢山存在する。なら俺は今楽しみたいことを楽しみたいと思うだけ。だから学校ではなく、橘と遊ぶことを選んでいる。

目が覚めた。

朝日を隠す為に閉められたカーテンは其の役目を終えて、
ただ其処へぶらさがっているものとして存在しているだけとなっていた。
まだ思考の巡らない頭を動かしながらもカーテンを開けて見ることにする。
其処には真っ暗な闇が支配する、昼間とは違った雰囲気が流れている。
夜はとても静かで、音という音を明白に其処へと書き出してくれる。
其れは辺りが此れでもかというくらいに静寂を身にまとっているからだ。
夜はいい、煩い母も煩い父も寝ているから何も言われないし、
面倒な学校に行かなくてもいい。そして何より、橘と遊べる時間でもあるのだから。

だが、今日の夜はとても騒がしいものになってしまうなんて、
今の俺には予想だにしなかった。いや、きっと誰もが予想出来なかったのだろう。
其れは一本の電話で知ることになる。

プルルルルル。

無造作にも鳴り響く其れは電話のベルだ。
誰かしらが俺の家へと電話をかけてきている事をいちいち煩い音で知らせてくれる。
こんな静寂の中で電話が鳴り響けば其れだけでありがた迷惑だ。
この煩い音は鳴り止んでくれそうもないので俺は受話器を取る。
だが其の電話の主は電話を取らなくても解っている。橘だと確信をしているから。

「もしもし。」

俺はそう言って相手の声を確かめる為に耳を潜める。

「もしもし。こちらT警察の永田と申しますが、弓塚直樹君のご自宅でしょうか。」

電話の主はこの間お世話になったT警察署からのものだ。
一瞬何があったのだろうと思ったのだが、原因は解っている。
恐らくは以前もめたあの連中との事に関するものなのだろう。

「はい、そうですが。」

俺は其れだけをいって用件を聞くことにする。

「あー、橘健次郎君の友達だね? 悪いけど、ちょっと着て貰えるかな。
今からT警察まで。」

用件という用件は言って来ない。此れが警察なのだろうか。
こんな非常識な時間に電話をかけてきたかと思えば、
名前だけ名乗り今直ぐT警察まで来いとだけ述べる。
本当に声の主が警察なのかどうかも怪しい所だが、
橘を知ってるという事は恐らく警察で間違いはないのだろうが。
仕方ないので解りましたとだけ言って俺は電話を切って着替える事にする。

「あー、めんどくさいな。なんだってこんな時間に呼び出し食らうんだろう。
アイツまた何かやらかしたのかな。はあ。」

着替えながらそんなことをこぼしながら俺はT警察へと急ぐことにする。

外は寒い。夏とはいえ、やはりまだ夜は冷えるようだ。
夏服とは別に夜出歩くようにまだ冬服は忍ばせてあった。
夜はまだ冷える、というのでしまわずに出しておいた冬服だ。
はぁ、と息を零せば其れはまだ白い霧のようにと宙を舞う。
ふとこの世から太陽という星がなくなってしまったら、などと
くだらない思考をめぐらせてしまう。

「さーって、T警察だっけな。うーん、正直行きたくないな…。」

其れだけを言って俺は自転車をまたぐ。





T警察署前につくと、其処には数人の黒い影がある。
橘達だろうと思って俺は声をかけることにする。

「よう、橘。一体何の用で呼び出されたんだ?」

近づくと其の人影の真上にあった蛍光灯が照らし出され、
スポットライトを浴びてるかのようにして、其の人影を露にする。
だが、其処にいたのは橘ではなく、橘に殺されかけた連中がいた。

「へっへ、おまえが弓塚だな?
まさかあの電話で引っかかるとはな、まだまだ中坊って事か。」

そんな電話をしてまで俺をおびき出したという事のほうが
よっぽど中坊じみているような気がしないでもないのだが。
そんな事よりも、よくよく考えてみるとこの状況は明らかに、
俺の方が分が悪い。其れは誰からの目から見ても一目瞭然だろう。

「さぁて、ちょっとこっちへ着てもらおうか、弓塚君。」

そういう男の声は先ほどの電話の声の主と同じものだった。
この連中の中の一人が電話をしてきたのだという事は解る。
といっても今わかったのだが。さて俺はこれからどうなるのだろう。
橘に仕返しが出来ないから其の仲間の俺にヤキを入れようとしてるんだろうか。
流石に金属バットは勘弁してもらいたいところなんだが…。

「おい、早く来いっつってんだろうが! このノロマが!」

そういうと男は眉間にしわを寄せ、俺の両手をがっしりと掴むと無理やり連衡していく。
辿り着いたのはこの間の路地裏に似た路地裏。此処はT警察のそばにある路地裏らしい。
でもこんなとこで何かをしようものなら警察の人間が来るのではないのだろうか?
しかしそんな事を律儀に考えている場合ではない。現状として俺は窮地に立たされている事に変わりはない。
直接的に関係が無いと言えば関係無い。俺はあの場所では『野次馬』として扱われたはずだ。
そしてボコボコにのされてしまい、腹いせに其の野次馬の誰かをとっ捕まえて、
「見てんじゃねえよ!」などと低俗な言葉を発して殴りかかっていくような、ただの八つ当たりだ。
しかしまずい。人数はざっとみて一〇人程だろう。以前に比べ数が増えているが、
こんなもやしっ子な俺一人の為に態々夜遅く、こんなに人数をかき集めるとは、
ただの莫迦なのか。それにしても豪勢な出迎えでもある。

かくして人というのはこういった状況下に立たされると竦み上がってしまうものだ。
普段何気ない態度もこういうときばかりは足元がすくんでみっともなくもガタガタと震えるのが普通だ。
何故にこうして落ち着いて居られるのかは良く解らない。其れは機転が原因だ。
良く考えてみる。例えば此処でこの間コイツが経験したあの惨劇を此処で繰り返されるとする。
違った点で言えば今回の被害者となるのはコイツではなく俺だという事だ。
だが、「殺されない程度の痛み」だけが残るとすればどうだろう?
痛みなんていうのは時間が経てば薄れてくれる。其れは精神的に来るものでもないし、
ただ肉体的に「痛み」という神経が脳に伝わっていくだけだ。
良く考えればこういう事。きっとこの落ち着きはそういったものだろう。
ただまぁ、其れはあくまで俺の「想像範囲」であって、実際には此処で生きて帰れるかどうかは知らない。
最悪な結末を考えるならば、ここでこいつ等に殺されるという事だって一理あるのだ。大袈裟かもしれないが、
人はそういった固定概念に縛られて生きているのだから致し方ないのだろう。
こういう境地に立たされれば、「殴られる」という先入観がまず脳内を支配する。
そうすると殴られるとはどういう事かという分析が脳内では始まるのだ。そうなると、
まずは人数から見て袋叩きにあい、身体中が痛いという悲鳴を上げる事を想定していく。
そうすると人はかなり特殊な人で無い限りそれに恐怖を感じていくのが一般的。
なので、足が竦んだり、身体が震えたり、果ては敬語になって許しを請う等の下手に出るのだ。

「さーて、おまえは此れから自分がどういう目に合うのか解ってんだろうな?
其のおまえの落ち着いた態度、あの時から気にくわなくてよお?」

殴られた張本人が自慢げに語りだす。莫迦かコイツは。
それにしても良く俺の電話番号を割り出せたものだ。
インターネットという情報網を使わずに此処まで搾り出せたのなら、
コイツは将来優秀なハッカーにでもなりそうだ、とか思ってしまう当たり何故か余裕だ。

どうせ殴られるだけで痛いだけで済むのだ。

なら後は適当に殴られて事を済ませばいい。
情けないと思える部分も多大にはあるが、時折、自分から素直に折れる事も大事なのだ。
ただ、折れる場所を間違えると本当にクズに成り下がってしまうだけだが、この場合はそうなるのだろうか。
考えてもみよう。俺には殴られる理由が実際問題一つもない。
俺の態度が気に喰わないから一方的に殴るというのはただのエゴイストである。
どうせなら殴られて痛い思いをさせた橘本人を呼び出してリベンジをする方がカッコイイとは思える。
そして、其れが出来ないのは偏にコイツには其の自信がない。
だからこうして自分より下の人間を標的にすることで橘への屈辱を解消しようとしているのだ。
だがこういうのは社会でも同じことが見られる。例えば上司にはへこへこしているのに、
下っ端にはアゴで使うだの偉そうにするだのといった事は良く有ること。
上司からあれこれ言われれば言われるたびに其のストレスは上司には向けられず、
自分より下のものへと浴びせられてしまう。下からすればいい迷惑だし御門違いだが…。
しかしながら、まだ社内で行われるモノならば同僚も理解が出来る範囲ではあろう。
其れが職場外だと話は変わってくる。其れが飲食店であったりもする。

例を出すと、『吉野家』とはそういう場所なのである。
此れは此れで聞いた話なのだが、吉野家という場所の深夜等では、
とても血の気盛んなサラリーマンの方々が来店してくるらしい。
そして事あるごとに店員に怒鳴り散らして日ごろの鬱憤を解消していくのだ。
何故吉野家にそういった事件が多いかは全く持って解らないが、何となく、
他の飲食店に比べれば、殺伐としそうなイメージが高いのは否認出来ない。

要するに、今目の前に居るコイツは『そういうレベル』だという事だ。
此処でこいつ等の好きにされようと俺はこんな莫迦どもに負ける気はしない。
いや、精神的な部分で、だが。

「おい、何とか言ったらどうなんだよ!
てめぇのそのすかした面もこれからは苦痛に歪む事になるんだぜ?」

此れまた低俗な発言だ。ヤバい薬でもキめてるんじゃないだろうかと思える暴言。
こんなことが警察の耳に僅かでも入ればこいつ等は尋問だけではすまないだろう。
余裕をかましていた俺だが、この発言で少しやばいと思い、
警察へと走りこむ隙を虎視眈々と狙うのだが、簡単は話しまわりは全て囲まれている。
かと思えば周りの連中も不適な笑みを浮かべたと思うと、
何処から取り出したのか、警棒くらいの大きさの鈍器を取り出す。
暗闇でよく見えないのだが、其れ等が数秒後、数分後には俺に向かって振り下ろされる。
幾ら人間でもあれだけの数で殴られたら恐らく正気ではいられまい。
完全にヤバイ。此処から一刻も早く逃げ出さなければ本当に殺されてしまう。

刹那、俺の背後で別の足音が聞こえる。
其れはここに居る全員が感じ取ったのだろう。
一斉にして皆が其の方向へと振り向く事になった。

ソレは軽々しくも手を振りながら近づいてくる。

「よう、弓塚。こんな所でこんな人数相手なんて、おまえもかっこいいねぇ。
惚れちまうよ、同じ男として、いや、実に素晴らしいねぇ。」

そういって軽口を叩くのは声でわかる。橘以外には居ない。
良く見れば人と思われる影は一つではなく、橘の後ろからもぞろぞろと増えている。
聞きたいことは沢山ある。何故俺が此処に居るのが解り、
何故おまえらがそろいも揃ってこんな場所にいるのかとかそんな疑問だらけの思考。
そんな疑問は言うまでもなく橘が話してくれるのだ。

「なんで俺がこんなところにいるのかって気になってんだろ?
実はさ、今夜も遊ぶつもりでおまえに電話をかけたんだが、
此れまた出たのがおまえの親でな、何か敬語とか使ってたし、
呼び出しを食らったみたいで渋々出て行ったって言うんだ。
しっかしまぁ、おまえの親も親だよな。そうならそうとおまえに一言いやいいのによ。
それに事情を説明するのもそうだよな。普通話すか? ってくらいに心底驚いてるぜ。
だからまぁ、目的としちゃあこの辺りだろうと思ってな。
ほら、いつぞやの莫迦が標的をおまえに変えたりしたんじゃないのかーってな。
見事に的中したのはちょっと哀しい気もするが、取り敢えずまだ何もされてねぇみたいだな。
良かった良かった。後は俺等に任せておまえは下がってろや。」

そういうと指の中の骨と骨がきしみあうような音を立てながらわらわらと人だかりが出来る。
勿論其の人だかりとは『野次馬』ではなく『対戦相手』といえばいい。
これから俺をのそうとしてた連中は標的を俺ではなく、この『対戦相手』に代わるのだ。
そうなると空気は一転する。静寂に包まれた二重の静寂と共に、闇へと包まれる数十名。
あの惨劇の繰り返しとなる舞台の役者が此処に集結したという事になるのだ。

「てめぇら、あれだけ俺を殴っといてまだ足りねぇってのか!
おもしれぇ、前回は負けちまったが、今回はそうはいかねえぜ。
素手のおまえらに俺等が負けるかってんだよ!」

其の言葉と共に俺を取り囲んでいた黒い陰は別の黒い影の集団へと矛先を変え、
獅子の如く襲い掛かる…。

「いいぜ、相手になってやるよ。
よし、もう二度とたてねぇくらいボコボコにしてやんぜ!
行くぜおまえら!」

其の橘の合図と共に無数の影と影はぶつかり合う。
ソレはほんのモノの数秒。あっけなくも武器を持っていた集団はのされてしまう。
無様にも床に伏せる集団を見ながら橘は物足りなさそうな口ぶりで罵声を浴びせる。

「こんなこそこそと闇討ちのような仕打ちしか出来ないおまえらに、
俺等が負けるわけねーだろ、莫迦どもが。顔洗って出直せよ。」

そういうとぴくりと反応して立ち上がるひとつの影がある。
其の影は何かがキレたように狂いだす。刹那、懐から取りだしたヒカリモノは、
紛れもなくナイフと称される刃物のほかならない。
この闇という闇の中で鮮明に光輝くソレは、この場にいてもソレだと認識させる。

「へ、へへへ、だったらこの場でおまえを殺してやる。
今更泣いても許してやらねぇからな・・・へへ、覚悟しろやあああ!」

そういって狂った獣はナイフを片手に橘へと襲い掛かる。
此れには仲間一同焦りを感じたようで、緊迫した空気が流れる。
が、橘はソレすらも交わしてしまう。ナイフとは短い刃物を言うのだが、
完全にナイフの扱いが素人である人間、ましてや怒りで我を忘れてる人間が、
闇雲に振り回した所で、ボクシング経験者である橘には無意味なモノだった。
しかし、ボクシングとはこうまでして人の暴行をかわせるものなのだろうか。
こういうのは漫画やアニメだけだと思っていたが、強ちそういうわけでもないのか…?

刃物が無造作に床へとたたきつけられ、金属音が辺りを包み込む。
相手の手からナイフがナニカによって落とされ、防御策を知らないナイフは、
受身を取れずにそのまま床へと叩き付けられてしまった結果だ。
勿論ナイフなんてものに防御策は取れないし、受身なんてのはもってのほかだ。
モノに関しては全てそうなのだが、其処に在るだけでは役目は果たせない。
ソレを有意義に使える『人』によってやっと役目を果たせる存在なのだ。
ただ、ナイフというのは人を殺す為に使われる道具ではない。
だから、使う人が間違った方向へと導けば、ナイフも立派な殺人道具となる。
身近なものでは言葉がソレに値する。言葉の暴力という言葉があるが、
得てして言葉というのは単純に人とコミュニケーションを取る為に使われるものではなく、
自分の感情を表現する為に使うというのが一般的である。
何も人間は初めから言語を話せたというわけではなく、ソレが必要になったから、
次第に言語能力が備わった、生物の中では一番上に立たされる存在である。
ソレは単に言語能力だけではなく、知識や生態についても他の生物よりも、
優れているという結果である。まあ、この考えは人間だからこそ考えられる事だが。
で、其の言葉は人と会話する為にも勿論使われるし、ソレで人の人生を左右する事もある。
言葉で苛められ、そのまま命を落とすケースもまれではないし、
その人の言葉で感動を覚え、人生を一八〇度回転させて、違った人生を歩む人も居る。
だから、言葉にしてもナイフにしても使い方を誤れば人殺しの道具になるということだ。

何かが空を切る音がする。
刹那、橘が振り上げた足は、相手の顎を一打している。
其の衝撃に耐える事が出来ず、ソイツは情けなくも地面へと倒れてしまう。
おもむろに橘はナイフを拾い上げると、其の矛先をソイツへと向け、

「人を殺した事もない奴が軽々しく殺すなんていうもんじゃないぜ?
何だったら、おまえの代わりに俺がおまえを殺してやってもいいんだけどな。
流石に俺もこんなナリをしちゃ居るが、怒りに身を任せて人を殺すなんていうような、
下衆野郎を殺して人生を棒に振るなんて莫迦な真似なんて、
おまえくらい莫迦じゃないと出来ないしな。さぁて、どうしてやろうか?
警察に行くのは慣れてるんでね、此処でおまえを再起不能になるまで、
痛めつけて、警察に尋問受ける程度だったら幾らでも受けてやるけどな。」

冷静な罵声に周りはこれ以上ない悪寒が走る。
考えているだけで、このとき程本当に実行するんじゃないだろうかと思ったことはない。
ただ、最初の一文と、その次が矛盾してるのはこの際触れないという事にしておく。
人を殺した事がないのは橘でも同じ事なのだから。

其の言葉に圧倒されたのは橘以外の全員である事に偽りはない。
暫くの間沈黙が訪れたのだが、ソレを切ったのはまたしても返り討ちにあった本人だ。

「ちっ。今日はこのくらいで勘弁してやるよ。」

そんな情けない言葉を発しながらぞろぞろと何処かへと消えて行く影。
ひと騒動が終わり、また此処には静寂が訪れる事となる。
流石に何だか疲れたので、俺等は軽く橘たちと話をしてから家へ帰る。
本当なら、このまま朝まで遊ぶのだが、流石にこいつ等のように慣れてはいないのだ。

家までの距離は結構な距離だ。
自転車を使ってですら走りたくないものなのだから。
さっきの路地裏とは一転し、夜風が無造作にも頬をくすぐっていく。
そんな何気ない夜風がとても心地よく感じられた。

「帰ってシャワーでも浴びて、久々に我が家で寝るとしますかねえ。」

そんなオヤジくさい事を独り言のように呟いて家へ帰ることにする。
途中、見慣れた人影が見えた気もしたが、恐らくは目の錯覚であろう。
あれだけ間近にいた人間を直視出来ないくらいの暗闇にいたというのに、
ソレと同等の暗闇を持ち、ましてや自転車で走っている最中に、
そんなはっきりと肉眼で確認出来るはずもないのだから。
特別気にする事もなく俺は家へと帰ることにした。





空は何時になく無表情だ。今の私のように。それに特別思い入れするわけでもない。
ただ空は在るのだ。今の私のように、ただ其の場所で在り続けるだけの存在。
変わり果てたあの弓塚 直樹を説得出来なかった私が今、此処に居る。
自分の中に沸き起こる感情だけをぶつけて、逃げ出してきた私が居る。
そんな今の自分は泣いているのだろう。頬を伝うだけの涙が物語る。
私はあの時どうすれば良かったのだろうか。あの出来事からまだ日は浅い。
だけど、考えてしまうのは遠い、遠い昔のことを穿り返すように…。

───今頃家族だって後悔してるさ。
どうしてこんな奴産んだんだろうって───。

彼は言った。だが、本当にそうなのだろうか。どうしてこうも思えるのだろうか。
私には解らない。親と呼べる人さえ私は覚えていないのだから。だから、
こう思えるだけでも本当は幸せのうちに入るんじゃないだろうか。本心ではない。
きっとコイツは親を大事にしているはず。でもソレはアイツだけじゃなくて、きっと誰でも同じ事。
言ってしまえば『反抗期』という年頃なのかもしれない。それで片付けてもいいのだろうか?
でも、例えば親が仮にもそう思っていたとするならば、大人しく家においておくのだろうか。
どうしようもないクズだと思うなら、とっとと家を追い出せばいいだけの話だ。
だが、アイツの素振りからするに、そういう様子はない。ならばコイツの勘違いだ。

───家族の居ないおまえにそんな事がわかってたまるかよ───。

解る訳がない。同じ家族を持つ人間ですら、他人事なのだから。
家族が居る居ないではなく、居ても居なくても解らないモノなのだ。
偏に同じ境遇に立たされた人間は時としてお互いの傷を舐めあうように慣れ親しんでいく。
同じ境遇だからこそ、解って貰える気持ちがあると決まってそう思い込んでいるのだが、
だが其の何パーセントを解ってあげられるだろう…? 結局の所、同じ境遇というのは適切ではなく、
同じ『ような』境遇というのが、適切だと思う。些細な事ですれ違ってしまう原因なんて…。

「おまえの気持ちは良く解る。」

そういう言葉を良く聞く。だが此れは本当には一寸とも解って居ない奴が発する言葉だ。
解ったフリをしてコチラの気を引いているだけの事で、何一つとして解ってくれてはいない。
俺もそういう事があったからおまえの気持ちもわかるんだ! と豪語されたところで、
そんな安い言葉で誰が信用出来ると言うのだろう? そんな言葉だけで信用してしまうのは、
ホントに騙され易い人間か、或いはただ、同意が欲しかっただけか。
何れにしてもわかってもらえる気持ちというのはほんの些細な部分だけで、
大袈裟に言えば99.99%は解って貰えないのが人間の心理だ。
だからおまえにそんなことがわかってたまるかと言われれば解るわけがないと答える。
解るよといえばソレだけで、罪になってしまうのなんて、明白なんだから。

───其のうち違う記憶で俺を塗り替えて、
忘れていくんだから、心配だっていっても今だけの話だろう───?

言いえて妙だ。しかし、正論でもあるこの言葉。
人は誰しもが心配ごとを抱えているものだが、ふとしたきっかけでソレが無くなってしまうこともある。
新しい記憶やきっかけで色濃く塗られてしまった『心配』は色褪せていってしまう。
例えば身近な友人が事故で死んだとする。最初は友達に電話をかけたり、
葬儀には必ず出席しようだとか、そういう話で盛り上がる。盛り上がるという言葉は適切ではないが…。
其の時に涙する人も居るだろう。どうしても受け入れられない人も出て来るだろう。
だが、其れは、其の時だけのモノで在る事も事実だ。そうではない人も居るには居る。
ただ時々ふとした拍子に思い出して『そういえば、死んだんだよな、アイツ』なんて言葉が出る。
でもだからこそ言いえて妙なのだ。年がら年中その人だけの心配をしていられる訳じゃない。
でも其れでも、心のどこかでは毎日毎日、気に留めてくれているものだと思う。
本人がそうだと気づかないとしても、時々ふと思い出してしまうのは、
心のどこかでずっとずっと、本人さえ知らない心配をしているからこそだと思うのだ。
でも、其れは言い換えれば『今だけの心配』にもなりえてしまうのだ。
なので、正論。しかし、言いえて妙。二つは矛盾しているように見えるが、イコールでも結べるだろう。
人が完全に忘れられる事なんて数えられる程の事柄でしかない。
一度覚えてしまった事を忘れるのは人間にとっては一番難しいものでもある。
で、一般的に言われる『忘れる』というのは、本人が幾ら考えても思い出せない状況を言う。
でも其れは『思い出せない』だけで『忘れた』とは言い難い。この場合は忘れたではなく、
『忘れていた』という表現が正しい。ふとしたきっかけで思い出すことだってあるのだから。
全てを完全に忘れてしまえる唯一の事といえば…死んだ時位なものだろう。

此れだけの事を淡々と考える事が出来るというのに、どうして私はあの時、
言葉に詰まってしまったのだろうか。冷静ではなかったのだろうか…? いや、そうではない。
元々理屈っぽかったアイツだが、アイツがまさか面と向かってさらっと言ってのける事が、
私にとっては予想外だったからなのだ。だからあの時何も言えなかった。
あの時何か、何でもいい、言っていれば、少しは展開が違っていたのだろうか…?

───お前の言う事を素直に聞くとも思えないのはお前が一番理解してるんじゃねえの───?

其れは橘の言葉だ。
あそこへと行く前から、そんな事は解っていた。解っていたけど人にはやらなければならない事もある。
どうせ言っても解ってもらえないだろうと諦めて取り返しの付かない事になったとしたら?
人は其れを簡単に諦める事が出来るだろうか。答えはNOだ。
其処まで軽率な人間はそうそう居ない。だから人は今出来る精一杯、いや、
今しか出来ない精一杯をやってのけてくるのだ。後悔しないために、そして、自分の為にも。

───やっと見つけた俺の生きがいなんだ───。

ちくりと胸が痛くなる言葉。生きがい。人は何かを見つければ、其の目標へ向かって走り出す。
其れを誰がとめられるだろうか? 其れをとめる権利が誰にあろうというのか?
何を言っても止まらない。止まるくらいなら追いかけるだけ無駄なのだ。
だが、其れが仮にも、目に見えて悪い方向へと進んでしまう『生きがい』ならきっと話は別。
マラソンで言うなら、逆走をしている感覚だ。だから誰かが言わなければならない。
それに気づかせて正しい道順へと導いてやらねばならない。其れが出来るのは誰だろうか。
きっと其れは其のマラソンをしている同じ選手ではなく、其れを見ている観客だろう。
一生懸命なのは、どんな生きがいだって同じ事。だから何を言う権利もないんだ。
でも、マラソンを見ている中で、一人だけ気づかずに逆走をしているのを見ていながらも、
其れを其のまま見過ごしたままで、誰が頷けるだろうか。誰が満足出来るだろうか。
マラソンをしている最中に其れに気が付ければ、まだ逆転の可能性だってあろう。
だが、マラソンが終わってから気づいたって、後の祭り。人生も同じ事が言えるのだ。
あの時こうしていれば良かった、と思うのはマラソンで言うなら、
逆走をし始めて、気づいたらマラソンが終わっていてどうにも出来ない状況だ。
後悔しても、もう、元には戻せない限りある大切な時間。
そうだと気づいていながらもどうして人は過ちを犯してしまうのだろう?
其の見本がきっと今の弓塚なのだ。生きがいを見つけて能天気にも後の事を考えていない。
考えていない、というのは適切ではないのだろう。『考えも付かない』というのが正しい。
アイツはアイツで根はしっかりしてる方だ。だから後先を考えて行動は出来るはずなのだ。
でも其れが今出来ていない。出来ていないのではなく、彼は彼なりに考えた結果なのだ。
で、どうして其処まで考えて悪い方向へと進んでしまうのだろうか。
答えは簡単で、今までそんな体験をしたことがなく、全く未知である未来を推測出来ないだけ。
其れは誰しもがそうである。だから考えて考えて、『今は此れでいいんだ』と考える。
で、其の結果を見出すまでの過程が正しいかどうかは不明のままで、結果が出てから、
改めて考えると、間違っていたんだな、と思える。其れが失敗。
例えば、中卒の人間はどうして中卒のままなのかと言えば、
今現在、中卒でも働く所は無数にある。目の前に広がる求人広告を見れば安心もする。
だからバイトをするのだが、中卒でも其れでやっていけると錯覚を起こしてしまう。
確かに、無理をしなければ、人は一生をアルバイトだけで過ごす事は可能だろう。
だが、仮にも其処でやりたい事が出来るとする。そして其れには中卒では出来ないと知る。
だとすれば取るべき道というのは高卒や大卒の資格を取るという事だが、
年齢が年齢になってくると物覚えも悪くなるし、学校へ行く事にも躊躇いが生まれる。
其処で後悔するのが中学時代に遊びほうけていたという過去の事実だ。
其の頃は『このままでも仕事さえやっていれば何不自由なくやっていける』と考える。
でも、いざ其の時になってみると、そういかなくなってしまう事が出て来るだろう。
そうなるとあの頃は此れで正しいと思えたが、やはり失敗だったのだ、と考えられるわけだ。

───ほら、言ってたろ? 学校には行く意味がないって。其れならこっちで遊んだ方が、
まだ何倍にも意味があると俺は思うんだけどね。此れは遊んだ俺が言うんだから間違いないし───。

きっと此れが後で後悔する言葉になるのだろう。
先ほどの話にこの言葉を当てはめれば、それなりに筋は通る。
意味がないモノなんてこの世には存在しない。存在するとするならば、
存在する意味そのものが失われた此処には無いモノだけだ。
確かに私も意味が無いと言った。でも其れは…『今』、意味がないだけの話だ。
後々になって其の事が必要になってくるかもしれないし、或いは必要ないまま終わるかもしれない。
問題は其れを自覚しているかどうか。自覚をしないまま、ただだらだらと行くという事は、
其れはきっと意味がない。いくという事に意味は存在するが、其れを自分の為に、
この先ずっと使えないままで居れば、どうしようもなく無駄な時間をすごしている事になる。
だから、そうなるのなら、今の弓塚のようにやりたいようにやっていくのも、強ち間違いではない…。

何が正しいのか。
何が間違っているのか。

そんなのは人が人で決める事じゃない。自分が自分で決める事だ。
此れが正しい、此れが間違っているなんていう御託は人による先入観の問題。
代表的なのは『普通』という言葉。何を基準にして普通と称すのかは此れも人によってまちまちだが、
偏に『皆と同じ』だと人は其れを基準に考えてしまう。例えば衣服なんかもそうだろう。
大昔、人は衣類を着用してはいない。其れが事実かどうかは解らないが、事実だと仮定する。
そうすると、今現在衣服を身にまとっているのが普通という認識になっているが、
でも其れは完全な人の先入観の話だ。大昔は衣類を着ていないとするならば、
今だって其れをしなくても何ら変わりのない普通なのだ。だから逆に考えると、
大昔、衣類を着用している方が『普通ではない』という事になる訳。
もっと言うなら、水着だって同じ事だ。見栄えは完全に下着と変わらないというのに、
此れはプールや海へ行った時に着用するものとして認識させられていて、
下着は身体の一部分を覆い、守る為のものという区別化がされている。
考えてみれば可笑しな話ではないだろうか…? 下着姿で居るのは恥ずかしいと思えるのに、
海に行けば、其れと同じような格好をして、其れを恥ずかしいと思わず無邪気に遊べるのだから。

今の弓塚だってそういう状況なのだ。

私もそんな弓塚を軽蔑してしまっているが、一般的な認識ではそう思うのだ。
彼等を正当化するわけではないが、考え方を変えれば、あいつ等の行動だって、
『普通』だといえてしまうこと。でも最近はそう思える大人も居たりする。
十五、六歳の頃は皆やんちゃだった。だから其の時期にそんな事をしても普通。
だが、其れを其れで許してしまうと、後々その人の人生自体可笑しくなってしまう。
だから人はたとえ其れが普通だとしても止めなければならないのだ。其れが出来ないと、
一例で言えば『少年犯罪』が起きたりもするだろうし、何時まで経っても、
働かないNEET(ニート)と呼ばれるまますごす人も出て来る。
あいつ等があいつ等で勝手に人生を転倒させて一人で苦しむのならば、其れは、
誰にとってもどうでもいいことだ。ソイツ自身の問題なのだから。でも、
人生とは誰がどういうカタチで割り込んでくるか解らない。
現にアイツの人生のレールの中では、私という存在が映ってしまったし、
私の人生のレールの中にも、アイツが映り込んでしまっている。
其の時点で、アイツが人生を転倒させてしまえば、私が巻き込まれる危険性だって発生する。
考え方としては自分の為だけのようになるのだが、今の私は多分そうだろう。
中途半端に私と接してきて、中途半端な感情が私に芽生えて、
そんな現状を誰が進展させていけるというのか、そんなのは私とアイツの問題なのだから、
私とアイツの他に何をどうこう出来る人はきっと、この世には存在しない。
代わりを創る事は誰にでも出来る。でも、代替は所詮代替の存在であって、完璧ではない。
だから、そんなツギハギだらけの完璧は、ちょっとした事で簡単に潰されてしまうのだ。
お互いがお互いのままで居たいと思うなら、どちらかが先に動かなければならない。
現状、そうして動けるのは私なのだから、私は私の為に動いて行くのだ。
其れが結果的にアイツの為にもなり、私の為にもなるというのなら、序だとしても良い結果だろう。
また明日からは、私は私の為にと、行動を起こしていくだけでいい。アイツの言葉を借りれば、


きっと其れが今の私にとって、たった一つの『生きがい』なのだから。


ぼう、と眺めた天井は代わり映えのしないありのままの天井だ。
時が経てば綻びたりする事はあっても、綺麗になっていく事はないのは人間も同じ。
いっその事、このままぼう、と天井を眺めるだけ眺めて終わるのなら、其れはきっと楽だろう。
でもそんなひと時だけの楽を求める為に私はこうして寝そべっているわけではない。
ふと時計に目をみやると、時計の針は午前二時をさしている。
さぞかし外は冷たい風が吹き荒れているのだろう。でも其れは今の私には良い薬になるかもしれない。
少しだけ、ほんの少しだけ、外を出歩いて、身体を冷ますとしよう。
そうして私は丁寧に仕舞い込んである、お気に入りの赤いロングコートを羽織って外へと出て行く。
こんな何気ないロングコートを褒めてくれた奴の顔が思い浮かぶが、其れも刹那の出来事。


外は予想以上に冷たい。まるで此処に居る私を否定するかのようにして。
はあ、と漏れる小さな息は、瞬く間に真っ白い霧となって、存在を否定されたかのようにして消えていく。
行くアテは勿論ない。でもただ外を歩くという事をするだけで目的は達成されるのだ。
ただただ、ぶらぶらと、アテもなく、人として歩いていくだけでいい。
今はそうしていた方が私としても落ち着く事なのだから。其れでいい。
例えば側を通る自転車に乗る男の姿が、弓塚だったとしても、今は気にしないで歩いていく。
気にして追いかけた所で、何も出来はしないし、火に油を注ぐような結果を出すだけならば、
今だけは、何もせず、ただ目的の無い道を歩いていく事の方が何倍にも意味がある。
そう考えるだけで、私は家にこもっていた時よりもずっと落ち着けた気がした。
知らず、私の頬は緩んでいたのかもしれない。人から見れば微笑んでるように見えただろう。
きっと私は心のどこかで笑っている。何も一人で難しく考え込む必要もないのだ。
ただ目の前をゆっくりと、一歩ずつ確実に歩んでいけばいいだけなのだから。
自分に出来る、今だからこそ出来る精一杯をしていくだけ。だからこうして歩いている事も、


きっと、私に出来る今だけの精一杯だと思うから───。