※このページは暴力シーンやグロテスクな表現が含まれています。


『 缶蹴り 』



「そーれっ!」

勢いのいい掛け声が公園に響き渡る。此処は何処にでもある、
普通の公園の一部分だ。小さいと言えど、全てを見ようものなら、
首を何度も何度も動かさなければならないだろう。
そして、そんな公園には、小さな子供たちが何不自由なく遊んでいる。
其の笑顔には、こちらまで微笑んでしまうような、そんな悪戯な笑顔ばかりだ。
掛け声を発した子供の足元には、原型を失った『空き缶だったモノ』が在る。
其処には何度も何度もけられたかのような傷痕が目立つ。
偏に其れは『缶蹴り』という遊びを行っているからなのである。
缶蹴り、というのは、鬼になった人が缶を踏みながら決められた秒数を数え、
逃げている人を見つけたら先にけられないように、缶を踏んでアウトにするという遊びだ。
単純といえば単純なのだが、これに訳も解らず夢中になった人も居たのではないだろうか。
俺も其の中の一人だ。だが、缶蹴りを見ているとつい昔の事を思い出してしまう。
嫌な思い出というのは中々に消えてくれないものだ。だが、簡単に消せる思い出でもない。

今日は少し、そんな昔の思い出を綴ってみようと思う。


──数年前。

此処はとある広場だ。近所の子供たちは此処を恰好の遊び場として活用する。
なので、結構な割合で此処の取り合いになったりもするのだが、
皆が来るよりも早くに陣取っていれば、そういった取り合いも発生しない。
其れが解っていたので、俺達は毎日のように早く来ては『缶蹴り』をして遊んでいた。

「いくぞー!」

集まった人数は正直言って余り覚えていない。
幾数人が集まったこの広場では、毎日このようにして、空き缶を見つけては、
皆でじゃんけんをして鬼を決め、こうして缶蹴りをして遊んでいたのだ。
取り分け俺はじゃんけんには強い方で、最初に鬼になるという事は滅多にない。
だが、今日に限ってじゃんけんに負けてしまい、鬼になってしまった。
其れも本当に稀な事で、普段鬼になる事のない俺にとっては、
この時程うずうずした事はなかっただろう。正直隠れるだけよりも、
誰かを見つけていくという事のほうに面白みを感じていたからだ。

掛け声に押されるかのようにして高く蹴り飛ばされる空き缶は、
何をするでもなく、強く地面にたたきつけられ、大きな音を出して転がっていく。
其の後で各々で逃げ、鬼は其のけられた空き缶を指定位置まで戻し、
決められた秒数を数えてから皆を探しに行くのだ。
探される身、要は逃げている人は、今か今かと鬼の行動を把握していくのだ。
たいてい鬼の見える場所に隠れるのが良い。更に見つかりそうになった場合の、
避難場所まで決めて一手二手先を読むのがこの遊びの楽しい所だ。
鬼にも鬼の楽しみ方というものがある。先ほども言ったように、
誰かを見つけるというのがこの遊びの真髄でもあるのではないだろうか…?

決められた秒数は三十秒。数える時は目を瞑るというのは、
既に暗黙のルールとなっている。目を瞑らなければ、皆が何処へ逃げるかという、
凡その判断が付いてしまう為だ。そうなると逃げる方は直ぐ見つけられるし、
見つけるほうも何かと直ぐ見つけられて面白みも半減してしまうというものだ。

「さぁて見つけにいきますかー!」

そういって意気込んだのは紛れもなく鬼である俺の声。
久々に違う楽しみがあるのだから、存分に楽しんでやろうという現れだ。
と、いうのも、俺の家計はとても厳しかった。
礼儀作法にはとことんなまでにうるさく、友達と遊ぶ事でさえ禁じられている。
今日は今日で黙って抜けてきている。というか其れが俺にとって『当たり前』と化していたが。
勿論其の後、家に帰れば「何処にいっていたんだ」とか「何をしていたんだ」とか、
事細かに聞かれるのだけは本当に勘弁してほしかったのは今でも思っている。
だが父もわかっていたのだろう、俺が何処で何をしているのかくらいは。
そして、説教が終われば完全に父の教育の時間という事になり、礼儀作法やらをやらされる。
正直今でなら耐えられるかもしれないが、遊び盛りだったあの頃にはとても辛い日々だっただろう。
何で俺だけこんな事をしなければならないのかとか、もっと友達と遊びたいよだとか、
そういった愚痴をはける場所もなかったし、だからこうして抜け出して、皆と遊ぶ事で、
解消をしていたのだと思う。其れがあるからこうして人一倍楽しむ事が出来たのも事実だ。

この広場は子供の遊び場にしては恰好の場所だが、そういうつくりをしているわけではない。
正直言って人が遊ぶ場所だとは言いがたいだろう。
つくりは新しい。塗装も最近されたようで、真っ白いペンキが一面中塗られてある。
厳密に言えば此処は工業地帯で、この場所だけ不釣合いにも真っ白なのだ。
だが、誰かが働いてるという様子も余りない。というのも、
遊びに来る時間が大抵夕方なのだ。此処の工業で何をしているかは知らないが、
仕事が終わる時間が他の工業に比べてかなり早いという事だけは、
此処に来る子供たち皆が知っている『当たり前』の認識だ。
其の証拠に、この時間に来ると、何時も工業は閉鎖状態で、シャッターが閉まってある。
勿論駐車場があっても、車なんて止まっていないし、其の駐車場ですら遊び場になる。
ぐるりと辺りを見回すと、役目を果たした大きな白い駐車場と、工業を行う場所であろう仕事場。
そのほかにも、不釣合いにも設置されている花壇。花壇には色とりどりの花が咲いており、
季節によって咲いている花も変わっていき、年中楽しめるというスグレモノだ。
首を器用に回しながら辺りを観察していると見慣れた人影が目に入る。

「小林君みーっけ!」

其の人影は一緒に遊んでいる小林という少年のほかならない。
其の証拠に、名前を叫ぶと、運動会の後、へばっているようにしてだらだらとこちらへ歩いてくるのだ。
勿論缶は手前にあるので、即座に軽く踏んでアウトを示す。
それに気づいた小林は、何とも残念そうにして言葉を発する。

「ちぇ〜、もう見つかっちゃったよぉ〜、七夜君強すぎだよー。」

七夜、と呼ばれた男は現在鬼である俺の苗字。本名を『七夜 薫(ななや かおる)』という。
女のような名前だが、男。七夜とは聞きなれない名前なのだが、
それゆえに有名な家柄だという事をあらわしている。
父が熱心に小さい頃から礼儀作法等を学ばせるのは、そういった『家柄』に縛られているからだ。
例えば、頭のいい学生が東京大学に進学しているとする。認識としては此処は『頭がいい』という事。
だから、そういう場所には其れに相応しい人間が沢山いるのだという事。
此処に仮にも不良と呼ばれる類の人間が居れば、間違いなく場違いだ。
ただそういった不良が増え続ければ、名門と言われる東大もただの荒地と化してしまうだろう。
そういった意味でも、恥をかかせたくない、名前を傷つけたくない、という意味合いを兼ねて、
家柄に『縛られている』という言い方をするのだ。

暫くしてから俺は他の友達を探しにそこらじゅうを歩き回っていく。
普段から来ているせいもあり、隠れるポイントというのは大体抑えていて、
他の友達も安易に見つけることが出来た。ただ、一人だけを除いては。

秋風 澪(あきかぜ みお)。

こちらも一風変わった名前なのだが、苗字も変わっていれば名前も変わっている。
初めて聞いた時は、女の子かとも思ったが、実はそうではない。
ただ、今回この時、この秋風 澪を見つけることが中々にして出来なかったのだ。
其れでも何時かは見つかるだろうと懸命に探してみたりもしたが、
一時間が経っても見つからない。可笑しいという事もあり、俺だけじゃなく、
既に見つかった数名で手分けして探すという行動に出る。
気のせいか、辺りは薄暗く、不気味とすら感じられる空気になっていたのではないだろうか。
何てことないこの空にしても、何処となく負に満ちているような、そんな気がした。

「何かあったのかな。」

口を開いたのは小林。正直其れは誰もが思った事かもしれない。
さっき、空が不気味だと感じたのはきっとそういった概念がまとわりついたからだろう。
人というのは、何か不吉な事を考え出すと、辺りに見える何て事のないものまで、
不気味に見えたりするものなのだ。きっとこれはそういう類。
結局あれから暫く探してみても見つからないので、小林の家へと連絡を入れることにする。
そうして大人も含めて秋風を捜すという行動に出るのだ。
この時期に携帯電話等というハイテクなものは持ち合わせていない。
まだ小学校である自分たちには全く持って不必要なのだから。
俺は家が家なだけに、冗談で口走っただけでも殺されかねないだろう。いや、冗談ではなく、
其れくらいにまで厳しい、という事だ。あの頃の俺は意味もなく、この家柄に腹を立てていた。

そういうわけで、各自、家に帰り、応援を要請しにいく。勿論俺も。
どうせ開口一発目から言われる事なんて耳にたこが出来るくらい聞かされていい加減うんざりだが、
其れも仕方のない事なのだ。其れを解っていながら家を飛び出してきたのだから。

七夜の家は、遊び場からはそう遠くない。小さい子供でも十分歩けばたどり着けるだろう。
父は此処でよく遊んでいる事を知っている。だから何時でも呼び戻そうと思えば其れが出来た。
何時だったか、そんな事をたずねた事があった。だが、父が言うには、
そんな莫迦な真似をして評判を下げたくない、と一言だけ答えて黙り込んでしまった。
父曰く、外で子供をしかりつけるのは、七夜家の秩序から反している、そう言いたかったのだろう。
でも、良く言えば、そんな子供心を察して、わざと遊ばせていたのかもしれない。
今になっては其れを聞くこともばかばかしくて聞いていられない事だが…。

七夜の家は、家柄が良いというのは口先だけではなく、
正直大きい。首を真上に上げないと家を一望する事は出来ないくらいだ。
通る人々が不思議そうに見て行く事も時々だがあった。今ではなれたのかそれも見ない。
館、というには派手すぎる。屋敷、と言うほどのものでもない。そんな曖昧さのある家。
其れが七夜 薫である俺の家だ。玄関までは普通の家と同じで、
小奇麗なドアが一つある。其れを潜れば七夜家の敷居を跨ぐ事になるのだ。

敷居を跨いだ側には父が立っている。自宅、だと言うのに父は袴を着ている。
ただ、この家にはこれ以上ないというくらいぴったりくる。家というジオラマに父という人形を置けば、
其れだけで、何処かの有名な御偉いさん、という言葉が出て来る事だろう。

「何処に行ってたんだ? 薫。」

開口一発目は何時もの台詞。言われなくてもこちらから行き先くらい言ってやるよ、と何時も思うくらいだ。
何時も通りの言葉なので、俺もそれに合わせて何時も通りに返す事にする。

「遊びに行ってたんだよ。」

其の口調はまるで反抗期だと思わせるような口ぶり。ささやかな子の抵抗でもあるが。
どのみち此処で何を言おうがこの先に言われる言葉も同じ事なので、
嘘をついても結局は同じ事。だからこうして素直にトゲのある言い方で、抵抗を見せている。
見せているのだが、そんな態度に父は全く動じず、決まり文句を言うところなのだが、
俺が帰ってきたのには勿論理由があるからなので、言われる前に言う事にする。

「それより友達が行方不明なんだ。探して欲しいんだ、父さん。」

目的は此れだ。大人の加勢を貰って一人の友達を探す。
もし何かあればもう既に手遅れかもしれない現状。父と此処で口論してる暇などない。
だと言うのに、父はいつもの決まり文句を言うのだ。眉一つ動かさずに。

「ダメだ、さぁ、礼儀作法をするから着替えてきなさい。」

こんな時にまで俺に礼儀作法をさせるというのか。この時ばかりは流石に父を軽蔑した。
いや、軽蔑せざるを得ないだろう。言うなれば、溺れている子供を見つけて、其のまま素通りする事に近い。
そんな人間を軽蔑せずにどうしろというのか…。そして父には『そんな事』よりも家系を大事にしている。
子供心からはそんな事しか言えない。実際に父がどう思っているかは解らないが。
父がダメなら母を、という事で着替えに行くフリをして母の居る居間へと向かうことにする。
母は母で、何時お客様がいらしてもいいように、とか何とかで普段着は着物である。旅館のようにも思える。
居間にはテレビが一台置かれてある。テレビのふちには、
SHARPとかかれており、此処数年はこのテレビを愛用している。
もうこのテレビが来てから、五年は経つであろうが、
まだまだ元気に其の役目を果たしている。今の父のように。
母に声をかけようとした其の時、テレビでは丁度ニュースがやっており、
先ほどまで俺達が遊んでいた工業地が映し出されている。

『今日、午後六時頃、此処、H市内の工業地で、秋風 澪君の遺体が発見されました。
発見された場所は、この工業地より離れた物置の中という事です。
えー、遺体の腹部には無数の刺されたあとがあり、警察では、
澪君を誘拐しようとし、抵抗したので殺した疑いがあるとして、調査を進めています。』

テレビから流れた音声の中には聞き覚えのある名前が飛び込んでくる。
そう、先ほど見つからないと騒いでいた秋風 澪という名前だ。
こんな珍しい名前は滅多にないだろうし、なにより自分が遊んでいた場所が映っている事から、
本人で間違いはないだろう。其れよりも考えるべき事は、今しがた言われた遺体の事だろう。
あの場所で、秋風は何者かに殺された。其の事実だけで、正直俺には十分すぎた。

友達が殺された─。
知らない誰かに殺された──。
ついさっきまで一緒に居た友達が───。
一体彼が何をしたというのか────。
殺される動機なんてものは一切ないのではないか─────?

あの場所で殺されたとするならば、偶々狙われたのが秋風だからであり、
ひょっとすれば、あのニュースで呼ばれる人物は俺だったかもしれないのだ。
そう思うと余計に背筋が震えだす。だが、このニュースは恐らく…。
暫くほうけていると、後ろから父が、

「何をやってるんだ! 薫! 早く着替えてきなさい!」

ニュースには目もくれず、居間に入ってくるや否や、俺に怒鳴り散らす父。
母も其れにはなれていたようで、微動だにもしない。この家系は何か可笑しいのではないだろうか。
流石の俺も、今回ばかりは我慢出来なかった。大切な友達が殺されたばかりだというのに、
礼儀作法なんて無駄な事をやっていられるというのだろうか。

「うるさい! 友達が死んだんだ! そんな時に…そんな時に礼儀作法なんてやってられないよ!」

言いながらも俺は泣いていた。無造作にも頬を伝う涙が教えてくれる悲しみという感情。
人として当然の反応。快くしてくれた大切な誰かが、何の理由かで殺された。
其れだけで涙を流す理由は十分であり、父に反発する理由にしても十分過ぎるものだ。
このとき、俺は本当の意味で父に反抗したと思う。普段は、そう、

何時も言われた通り、
まるで、父の人形のようにして───。

今回は其の呪縛を解き放とう。神も今回限りは許してくれるだろう。
だと言うのに、父の言葉には怒りという感情だけが著しくもあふれている。

「そんなものは警察に任せておけばいいんだ!
お前はさっさと着替えて父さんの言うとおりにしていればいい!」

父の言う事にも一理ある。殺されたからといって俺がしゃしゃりでて良い問題でもない。
寧ろ、出て行った所で何がどうできるわけでもない。俺がどうこうできるレベルだというのなら、
秋風もむざむざ殺されるという事にはならないのだから。
此れで警察の厄介になれば、邪魔者以外の何者でもないただのガキだと思われるのがオチだ。
だが、こんな時だからこそ、じっとしていられないのは誰でも同じではないだろうか。
結果がわかりきっている事だからと何もしないのでは、人間落ち着かないものだ。
俺は父に一喝をくれてやると、無謀にも其の場所へと再び戻ることにした。

走った。走らなくても直ぐに辿り着ける場所へと。
走った。其処にどんな結果が待ち受けているかなんて想像もしないで。

いざ現場についてみると人だかりが出来ている。
此処は普段の遊び場である工場地だ。だが、何時ものように中には入れない。
勿論先ほどのニュースのことで、辺りには青い制服を着た警察が何人も居て、
KEEP OUTと描かれた黄色いテープで工場地の入り口を封鎖していた。
だが、此処に来る野次馬のほかに見慣れた人物が居たのだ。
先ほどまで遊んでいた友達だ。友達は友達で皆ニュースを見たらしい。
そして、いくなと止められて、俺と同じようにして、家を飛び出して来たらしい。
きっと今では皆の親がこの場所を躍起になって捜しているに違いない。
家から遠いわけでもないので、直ぐに見つかり追い返されるのが目に見えている。
だが、そんなことは誰しもが同じことだ。そして、皆泣いているという事も…。
工場地が此れだけの厳重な包囲ならば、犯行現場であるあの物置にはもっと厳重な包囲が、
されている事には違いないだろう。其れでも俺達は其処へ行かなければならない。
そのために、此処へ来たのだから。此処でおめおめと帰る事が誰に出来ただろうか?
行こうとした矢先、ふと一人の男性が其の現場へと入っていくの見た。
見たところ、警官でもない。だとすれば一般人だ。何が目的かは知らないが、
其れに誘われるかのようにして俺達はあとを追うように物置へと向かう。


物置について俺達は唖然とした。どういうわけかここには包囲網が張られていないのだ。
其処に居たのは、先ほど見かけた男性が一人だけ居るのだが、何処となくぎこちない。
暫くすると、俺達に気づいたのか段々と近づいてくる。そして開口一発目に、

「七夜 薫をしらねぇか。」

男は俺の名前を呼ぶ。見ればとてもやせ細った身体をしていた。
黒い服を着て、ニット帽を被り、何処となく疲れているのか鼻息も荒い。
名前をいわれて俺は確信する。この男が秋風を殺した張本人なのだと。
本来ならば此処で逃げるのが得策なのだろうが、如何せん人だかりのある工場地までは、
十分に距離がある。此処から一目散に走った所で、この男には追いつかれるだろう。
其れでなくとも、今俺の目の前には複数の友達も居るのだから。逃げ切れるはずはない。
誰かが逃げ出せば、この男は即座に近くに居る友達を捕まえてしまうだろう。
なら今は、大人しく従う他はない。見つかったのが運の尽きなのだと諦めるしかないのだ。
暫く黙っていると、男は痺れを切らしたのか、唐突に怒鳴り声を上げる。

「しらねぇのか! 知ってるのか! どっちなんだお前等!」

其の男の言葉に俺達は竦みあがってしまった。無理もない。
見ず知らずの男に名前を言い当てられたことも不自然であれば、
こうしていきなり怒り狂っているのも尋常ではないのだから。
ただでさえ、友達が殺された現場だというのだから、余計に恐怖心を植えつけられる。
でも言わなければもっと酷いことになる。言うなれば、この男は俺に用があるのだ。
其の用件さえ汲み取ってやれれば、人質に取られることはあっても、
直ぐ殺されることはないだろう。子供ながらに此処まで考えられたのは在る意味普通ではないが。

「俺が七夜 薫だ。」

俺は言った。言うべきではなかったかもしれないし、言うなれば、知らないとでも言えたはずなのだ。
だが、用がないと知れば、口封じとして此処で殺されるという選択欄もなきにしもあらず、だ。
どちらにせよ殺される可能性があったといえばあったのだから。
すると男は口元を緩ませ、歪な笑いを作ると、

「お前が七夜 薫か。聞きたい事がある。ちょっとこっちへ来い。」

そういって俺達はこの男に物置の中へと連れ込まれることになる。
物置は本当に物置で、それ以上でも其れ以下でもない。何が言いたいかというと、
此処は物置という立場でしか立地されておらず、とても狭く、薄暗いのだ。
誰しもが此処につれてこられて思ったのだろう。

殺される、と。

きっと俺だけではないはずだ。此処に居る全員がそう思っていただろう。
心なしか皆は涙は流すものの、泣き声一つあげない。
勿論、恐怖心で押さえ込まれ、声を上げるという動作ですら出来ないでいるだけだ。
其れは例えば、痴漢にあい、本当は声を出したいのだが、怖くて声を出せないのと同じことだ。
だが、考えてみれば此処は秋風が殺された場所のはずだ。だというのに、
血痕という血痕が全然見当たらない…。どういう事かと少し考えてゾクリとする。


この工場地から少し離れた所に物置がある。だが、其の物置が二つ、三つと存在していたならば、
話は別になる。これだけ大きな工場地なのだから、こんなちっぽけな物置一つで足りるわけがない。
厳重な包囲網がなかったのは、此処が其の秋風殺害現場とは別の物置だという事だ。
勿論警察が注意を払っているのは事件のあったあの物置だけで、
此処までは注意が伸びていない。偏に野次馬対策でもあるのだが…。警察の盲点。

男は腰元から刃先二十センチ程のナイフを取り出す。刃先は綺麗に仕上げられており、
其の刃先を覗き込めば、覗き込んだ者の顔が鮮明に映し出される程に美しい。
だが、其の刃先には、赤いペンキの様なものがふき取られずにこびりついてしまっている。
紛れもなく、あれは秋風の血の他ならない。DNA鑑定しても恐らくは…。
男は其の刃先をとんとん、とリズム良く、手のひらにあてがうと、

「さあ、此れからお前達に聞きたいことがある。七夜 薫の父親と親しい者、手を挙げろ。」

七夜 薫と名乗った俺が一番親しいに決まっているのに今更になってどういうつもりなのか。
まあ、恐らくは、ソレを知っている人間が多ければ多い程、あちら側には有利という事か。
勿論、手を挙げるのは俺一人だけだ。友達は俺と親しいことはあっても、
あの父と親しい等という事は断じて有り得ないのだ。あんな父と親しいとすれば、
身内である俺と、父と社交する別の家柄の人間だけだ。
誰も手を挙げない事を悟った男は、ナイフを俺に近づけながら、

「お前が確か七夜の息子だったなぁ? お前の親父は昔、俺の親友だった。
だが、ある日突然俺を見捨てやがったんだ。解るか? この悔しさが。わからねぇだろうなぁ?」

何が不満なのか。男の顔は今以上にもつりあがり、今にも人を殺しかねない表情だ。
きっと、秋風を殺した時は、こんな顔をしていたのだろう。
だが、何もいえない。父から聞く話なんて礼儀作法の事ばかりで、
此れといった過去の話なんて今の一度もしてくれた事がないのだから。

「お前の気持ちなんて解ってたまるかよ! 僕たちの友達を殺しやがって!」

涙をぼろぼろと無造作に流しながら口を開いたのは小林だ。
よほど、悔しかったのだろう。よほど、辛かったのだろう。ソレだけ、怖かったんだろう。
其の言葉が男の逆鱗に触れ、男の態度は更に可笑しくなる。

「てめぇ、誰に口聞いてやがる! 言葉遣いには気ぃつけねぇと、こうなる…ぞ!」

そういって男の持っていたナイフの矛先は、俺ではなく、小林に向けられ、刹那、
小林の腹部からは大量の赤いモノが溢れ出してくる。男の手によって、
誤った使い方をされたナイフは、真っ直ぐに小林の腹部を貫いた。
肉と肉を切り裂く音は全くと言っていいほど聞こえてこない。が、その代わりに、
今まで押さえつけられていた内部の血液が、今だと言わんばかりにして、
一気に溢れ出し、飛び散っていくのだ。簡単に言うならば、満員電車の中、
目的の駅につき、扉が開くと同時に沢山の人々が流れ出て行くようなものだ。

居場所を失い、溢れ出る事だけしか出来ない血液の群れは、これみよがしに辺りに勢いよく飛び出す。
其の光景はまるで、水を勢い良く噴射するスプリンクラー。
血が大量に飛び散ったかと思うと、小林の開ききった腹部では、
此れでもかと言わんばかりに淫らにも血が噴水の如く、噴射を続けている。
一瞬にして、小林の足元には血の池が出来上がる。イメージは水溜り。
其れまで勢いを失わなかった小林は、ナイフが刺さった事を最期に、
ただ人形のように、その場に崩れ落ち、無様にも痙攣を起こしながら動かなくなる。
此れが『死』だ。誰しもが与えられる死。今正に、其の瞬間に立ち会ったのだ。
この光景に誰が言葉を紡ぐ事が出来たであろうか。出来るとするならば、小林を殺した殺人者のみ。
先程まで命の灯火を限りなく燃やし続けていた小林は、目の前の、見ず知らずの男の手によって、
簡単に絶たれてしまった。こんな事態を誰が予測出来たのだろうか。
『可能性』としては予測していたかも知れない。此処に居る全員が。
ただ、『可能性』が『事実』に変わるとは誰も考えたくはなかったし、考えようともしなかっただろう。
だがソレは起きてしまった。たった今目の前で友達が一人、死んでしまった。
其れを、まるで芸術作品を眺めるかの如く堪能した男は、更に首筋へとナイフを突き立てる。
俺は目を瞑った。聞こえてくるのは男がナイフを振り下ろす時の風圧、そして血の噴出音。
例えるなら、水溜りを足で何度も何度も踏みつけるような音だ。ただ其れが水か血かの差で。
すると男は歪にも高笑いを交えていく。其の高笑いと共に勢いを増す殺人鬼。
ねっとりと、仄かに暖かい血液が、服や顔に勢い良く叩きつけられて行く。
たった其れだけの事で、俺は今にも気を失ってしまいそうだった。そして今すぐ此処から、
逃げ出したいと強く願った。もう我侭なんて言わない。毎日くだらない礼儀作法をやってもいい。
それで全てが終わるならどれだけ安い代価だろうか。不謹慎にもそんな事を考えてしまう。
暫くすると、鼻息を荒くした殺人鬼は手を止めて、

「解ったか? 口の聞き方には十分、気をつけるんだな。」

其の言葉を合図に耐え切れなくなってしまった友達が一斉に走り出そうとした。
ぼろぼろと流れる涙で何を求めていたのだろう。友達の死を目の前にして何を思ったのだろう。
俺は其の光景を見ているだけしか出来なかった。走るという行為ですら出来なかった。
まるで産まれたての赤子のように泣き声を挙げながら必死で物置の扉を開けようとする。
もういやだ、死にたくない、どうして僕たちがこんな目に合わないといけないの。
そういった声も聞こえた気がした。だって、其れが本当に短い間だったから。

俺の周りではあちこちで血のスプリンクラーが設置されていくのだ。
其れを造ったのは目の前に居るこの『殺人鬼』の他ならない。
ただ男は振り回した。手に握られた凶器と名をうたれた刃物を。
ただ友達は逃げ出そうとした。殺されたくはないが為に。
そんなあどけない子供達の夢は、一本のナイフによって簡単にも切り刻まれてしまった。
こいつ等が一体何をした? 何も殺されるような事は何一つだってしちゃいない。
ただ此れは男から言わせれば父への復讐の為の障害に過ぎなかった。
だとすれば、全ての元凶は俺の父親だという事になる。なら、此処に居合わせた俺にも責任があるというのか。
俺が毎日大人しく、父の人形になっていれば、こんな事にはなりえなかったのではないだろうか。
そう思うと、悲しみよりも絶望感が先行してしまう…。辺りは血の海。器用にもこの物置は、
入り口付近にほんの数ミリ程度の淵があり、血が外へ流れ出るという事も無い。
よって此処は完全に密封された場所で、男の独壇場という事であり、俺に勝算は無い。
無論こんな状況を見せ付けられて平然としていられるわけではない。
動かなくなったいくつもの『人間だったモノ』が転がるこの狭い物置において、
血の匂いというのはとても強烈がモノがある。其れは酷く鼻だけではなく、
身体全身にこびりついていくような悪寒を覚える。目を向ければ男が居て、其れを見るのが厭だと、
顔を逸らせば幾つモノ人形が目に入る。そうして俺は胃の中のモノを全てその場に吐き出していく。
血液の如く、粘り気のある異物が俺の口の中から大量に溢れ出して来る。
胃液が痛い程に喉を絡み取り、今にも焼ききれてしまいそうな感覚を覚えていく。
まともに呼吸も出来ない。大きく息を吸えば、其れだけで目の前の惨劇が繰り返され、
余計に吐き気を強くさせるだけの促進剤にしかならなかった。其れでも男は微動だにせず、
胃の中のものを吐き終え、四つんばいに倒れ込んでいるのを見ながらも質問を投げかけてくる。

「お前は親父が憎いと思わないのか。理不尽だと思ったことはないか。」

一風して態度はかなり落ち着いている様子だ。俺にとってこの惨劇が、
百害あって一利無しの麻薬だとするならば、男にとっては其れを治める為の鎮静剤という所だ。
そんな質問に答えてやる義理はないし、今はこの男の声ですら虫唾が走り、余計に吐き気がする。
胸がアツい。アツいだけなら我慢も出来ただろう。段々と血は固まっていき、
殺された友達からは、此れでもかというくらいの腐敗臭が血に混ざり、刺激が増していく。
このまま此処でわけもわからず気を失い、殺されるというのなら其れはきっと楽な選択だ。

「答えろ。お前も死にたいか?」

其の質問にはどうあっても答える事は出来ない。答えたくもない。
殺すなら勝手にすればいいとさえ思えてしまうのだが、理性が逃げろと伝令する。
だから俺はゆっくりと、目を瞑りながら立ち上がる。そして、ゆっくりと目を開き、男を見据える。
正直言って気を抜けば其れで終わりだ。気を失って完全に殺されるだけになるだろう。
だから、最期に俺も悪あがきをしてみようと思う。どの道殺されるなら其れも構わないだろう。
其れは諦めではない。微かなる希望に手を伸ばすという事だ。

「はぁ…はぁ…た、確かに憎いよ。毎日、こっちの都合はお構いなしで、
礼儀作法とかやらされるんだから…。で、でも…其れでも俺を育ててくれた事には…、
はぁ…はぁ…代わりは…ないから、だから、本当は…好きなんだと思う…。」

喉がうまく動いてくれない。声を出そうとするだけで喉は悲鳴を上げてはちきれようとしている。
まともに呼吸も出来ない。そんな状況の中、俺は俺自身の本音をぶちまけた。


親を愛していない子供なんて居ない───。
同様に、子供を愛していない親なんて居ない───。
例え親が子供を縛りつけようと、例え子が親を縛りつけようと───。
親は親で、子は子である以上、其れを偽りの言葉だけで紡ぐ事は出来ない。


男の手に残っているナイフの矛先が俺の心臓へと狙いを定める。
此れが最期。だがまだ終わっちゃいない。最後の最後まで俺は抵抗をしてみせる。
例え逃げ切れないとしても、此処で諦めて死ぬのだけはごめんだ。

「そうか、じゃあもう何も言わねぇ。お前もこいつ等の後を追わせてやるよ!」

そういって男はナイフを振りかざす。俺は其れと同時に物置の扉を身体全体を使ってこじ開ける。
ふらふらとふらつく足に鞭をうちながら、ただひたすらに走った。涙で前が霞んでいようと、
其れは些細な問題であり、走ることに支障はない。間髪居れずに男は走り出し、
俺の後を追ってくる。だが俺は振り返る事をしない。振り返ればきっと其処で終わってしまう。

「此れがお前の最期だ! お前を殺し、次はお前の親父を殺してやる! あははははは!」

完全なまでに理性を崩壊させた男はナイフを片手に俺を殺そうと走り出してくる。
満足に呼吸が出来ないこの状況下で、俺は走り、叫び続けた。喉がつぶれても構わない。

「だ、誰か! たす…助け…助けて! 誰か! かはっ!」

叫ぼうとすればする程、喉は其れを拒絶する。口からは胃液だけが溢れ出し、
今にも溶けてしまうのではないかというくらいの胃液が口の中を侵食していく。
其れでも構わない。此処から逃げ切れるのであれば、喉の一つや二つくれてやろう。

「やめろ!」

突然聞こえた其の声には、何処か聞き覚えのある声だった。何処か…懐かしい声だ。

「とう…さ…ん…?」

このとき程、涙で前が霞んだ事を鬱陶しく思った事はないだろう。
うっすらと見えた其の人影が必死で抵抗しているのが見えるだけで、
俺には其れが父だという幻想を抱いたまま、その場に倒れて気を失ってしまう────。


気が付けば俺はこうして何不自由なく育ってきている。
ただ、其の代償はとてつもなく大きすぎた。自分の命一つで償い切れるものでもない。
だから俺は殺されたあいつ等の分まで精一杯今を生きる事を心に誓った。
どういう流れで今現在の俺が生きているかは解らない。でも其れはきっと重要ではない。
重要なのは、今自分が生きるチャンスを与えられたという事だ。だから俺は其れを
見失わないように精一杯、かみ締めて生きていけばいい。
亡くなった友達にしてやれる償いは、きっとそれくらいしかない。




空は晴天。此れ以上ないまでに晴れ上がっている。
其処に見えるのは『空き缶だったモノ』が器用にも回転して地面に落下しようとしている所だ。

其れはまるで、
あの頃、あの時に、

友達が蹴り上げた空き缶のように───。